まずは結論から

独断的ではありますが私の経験上から、まず結論を先に申し上げます。

“あがり症は治りません。”
また治す必要もないのです。あがりは克服するものと言ったほうがいいかも知れません。あがり症で苦しんでいる方。こう考えてみてください。
まず、あがって人前で弾けることに対して感謝の念を持つべきです。
あがって弾けるから自分は素晴らしいのだと自覚しましょう。あがり症の人はあがって弾けるという素晴らしい才能を持っているのですから。

「あがりなど慣れの問題で、場数を踏めば慣れてくる。慣れろ!」だとか、「あがるのは自分を良くみられたいためで、ミスを恐れているためだ。だからミスなど恐れるな。」「あがり症では音楽家になれない」など、私自身もいろんな方からそんなことをよく言われてきましたが、少なくともプロに対してならこれらの言葉を使うのはどうかと思います。また「お客はカボチャかキャベツが転がっていると思え!」と言われたことも。
いつも思うのですが、慣れでは最高の芸術など成立しないのではないでしょうか。芸術において慣れるというのはその芸術に対する驚きからくる新鮮さから目を逸らせ、蓋をすることと同じことなのです。慣れることは芸術を創造することに関しては存在しません。これは音楽だけに限らず美術、文学すべてに共通することです。
楽器を弾くことも毎日毎日、いちからその楽器を習い始めるような新鮮な気分で付き合うことがとても大切です。実際、身体も楽器も毎日変化し続けますから。
馴れは禁物です。全然あがりもせず舞台慣れしきって弾いた演奏の何とつまらないことか。そんな演奏をする人(団体)を何人も知っています。緊張感や驚き、感動で震えながら薄氷を踏むように、もがき苦しみながら一歩ずつ歩を進めていくような演奏、それが本当は価値があり尊いのです。

良く見られたいと思うのもプロなら当然のことで、より良い演奏をしたいという責任感の表れだからです。だからミスを恐れるのです。
演奏者は作品に対して常に新しい驚きと尊敬の念を感じながら演奏しなければなりません。慣れで弾いた演奏のどこが素晴らしいと感じられるのでしょうか。ましてや“カボチャやキャベツ”などと考えるなど言語道断、暴言です。聴衆は音楽の三つの要素の一つだから。後二つはもちろん作曲家と演奏者だということは言うまでもないことです。たとえ一人で弾いたとしても、自分という“最高の”聴衆がいるじゃありませんか。これはとても大切なことですよ。自分自身を無知で馬鹿なな“カボチャ”と否定してはいけません。自分を大切に!最高の聴衆でありましょう。あがった自分も理解してあげるのです。けっして自己嫌悪などに陥らないこと!自分を大切にしてあげると、ある時ふと自分が奏でる音楽に自然に集中できている自分がいることに気がつくものです。

私自身、むしろ場数を踏めば踏むほど恐怖感は増すばかりでした。演奏する毎に新たな課題が明るみになり。偉大な芸術を前にして畏怖の念を持って仰ぎ見る、今でもその感覚は継続中です。一人で弾いていても緊張します。自分自身の演奏に対する芸術的な要求がどんどん増えていくためです。プロとしてその演奏の最後の瞬間まで最善を尽くそうと努力するのは当然のことだと思います。最善を求めて神経質になるのが普通です。あのカザルスも極端なあがり症だったといいます。それだけ自分には厳しかったのでしょう。そして自分をコントロールする術を身につけていったのだと思います。
その演奏がどうでもいい、なんでもよければ一切あがったりしないでしょうね。
あがるというのは貴方の責任感の強さ、自分への厳しさの表れなのです。決して弱さなんかではありません。
そう感じてください。