Op.2-5
クレッシェンド、デクレッシェンド、ディミヌエンド

この言葉は一般的に音の増減の意味として使われます。cresc.decresc.dim. と書かれます。
< や> と書かれることもあります。

文字で書かれるcresc.クレッシェンドは
月などが満ちていく、満ちるという言葉が語源です。
したがって音量の増加や音の拡大と捉えることは基本的には間違いではありません。しかしなぜ音量を増加させなければならないのか。
やはり何か目的があって書かれているはずです。そこを考えなければなりません。

遠くから近づく救急車のサイレンの音、あれも目的があって音がだんだんと大きくなり去っていくのですが、機械の音それだけでは芸術にはなりません。音楽においては常に目的となる心境地へ至る、どこかに自分は向かっている。そこへ至る心境の変化、常に自分というものが存在しているのです。また雲が近づき雷雨になりまた晴れていく、など大自然の変化、それに伴う色彩の変化や感情の変化。これも常に美しいと感じる自分という存在があってのことです。この時の自分とはもちろん作曲者と演奏する自分を含めた自分という意味です。これが重要な芸術的要素のひとつになっているのです。デュナーミクの時もそうでしたが、その“心境の変化が音になって滲み出る”、それこそが音楽芸術の基本なのです。無意味に音を増減させるのでは本末転倒です。
その心境の変化とはどんなものがあるでしょうか。
例えば、大自然の移ろいを体験した時の感動、膨らむ希望、憧れ、期待感、あるいは迫り来る死の恐怖、深まる絶望感、飢餓感などマイナスのイメージもたくさんあります。それらの感情がやがて醸成され癒されてデクレッシェンドしながら落ち着いていくのです。あるいは、表面的には落ち着くように見えても、そのままその感情を引きずっていくのかも知れません。感情のうねりは何度も訪れます。またフランスの印象主義音楽のように色彩や光の変化を重要な要素として捉らえられた場合でも、淡い色から濃い色へ。あるいは暗い色から明るい色への変化として表現されますが、そこにも人の驚きや感動、つまり感情の動きが必ず再現されているのです。
これらをただ単なる音の増減だけで捉えるとどんなことになるかは、もうお分かりですね。
ひとが色々なことを感じた結果が音として現れ、音量の変化という現象が引き起こされるのです。
常に変化し生きてどこかに向かっているのが音楽です。

バロックの時代の作曲家は前期古典派から現代にいたる伝統のようにあからさまに自分の感情を吐露することはしませんでした。
バッハなど音形の進行だけでその表現をしているので、その効果を見落とさないようにしたいものです。
記号によるクレッシェンドやデクレッシェンド<> は現代では文字によるそれと同じような意味で使われていますが、元来まったく違った意味で用いられていました。<と>とはいつもセットで使われ、<>が付いた音形にはスポットライトが当たる、木漏れ日が草木に当たっている、ある時は太陽か急に雲に隠れる、あるいは顔をこちらに向けた後すぐに目をそらす、など視線を変える、という具体的な表情的効果を狙う時に付けられていたのです。その伝統は現代にまで受け継がれています。
それを音の増減の問題だけで解釈してしまうと、その音楽が意図する本来の意味から外れた別ものになってしまいますし、なにもその曲からは汲み取ることはできないでしょう。音楽のほんの一面しか見えないことになってしまいます。

作曲家によっては文字と記号のクレッシェンド、デクレッシェンドを混同して書いていることも多く、これらの記号や文字を作曲家はどんな目的でそこに書いいているのか、私達は十分研究して演奏するべきだと思います。もっとも作曲者の意図とは別に、校訂者の判断によって書き加えられた楽譜も多いので、それを使う私達は注意が必要です。

音楽とは作曲者と演奏者が一体となって創りあげるもの。これが美術にはない、音楽の最高にして最大の特長です。

つづく