其ノ二

バロックやそれ以前の時代にもヴィブラートの概念はありました。ジェミニアーニやマラン・マレなどバロック時代の楽譜を見てみると、彼らは独自のヴィブラートを示す記号を音符に記していることに気がつきます。ということは当時の演奏家は、ヴィブラートを独特の表現法、つまりトリルなどの装飾法と同次元で捉えていたと考えられるのではないでしょうか?超絶技法で名を馳せたあのパガニーニでさえ、ヴィブラートは禁欲的に使っていたと聞きます。習慣的で無意味にヴィブラートをかけていたとは考えられません。当時の演奏家は必要がある時のみ、計画的にかけていたのです。少なくとも現代のような、かかりっぱなしの大袈裟なヴィブラートをかける習慣は無かったはずです。
演奏家にとってヴィブラートとはまさにスパイスであるべきです。作る料理に対して、使う種類や量を決めるのは料理人のセンスそのものであるからです。使い方によって料理を生かしも殺しもします。 現代のヴィブラートは家にある在るだけのスパイスを全部ぶち込んだようなもの、といえばわかっていただけると思います。
19世紀初頭のチェロ奏者ドッツアウアーが言うように、基本はノンヴィブラート。ヴィブラート無しの音が美しくなければお話にならない、ということ。料理で言うならば、スパイスの入っていない基本の味がしっかりしていなければならない、ということです。決してスパイスでごまかしてはなりません。ましてや、せっかくの美味しい料理にソースやマヨネーズをぶち込んで、台なしにしてはならないのです。

それでは、どのような理由で華麗で大袈裟ななヴィブラートをかけて演奏するようになったのでしょうか。それはやはりフランス革命以降、ヨーロッパでは演奏会が市民の物になり、コンサートホールが普及していったことに関係があると思います。広いホールで大人数に同時に演奏を聞かせるためには、どうしても大きな良く通る音で演奏しなければなりません。大きな音で弾くのなら楽器を改良する必要があります。しかし改良だけでは限界があります。テクニックも改良していかなければならなくなります。そこでヴィブラートの存在は不可欠になってきたのです。しかし、それでも現代のような、かかりっぱなしのヴィブラートはまだ存在しませんでした。
かかりっぱなし“病的ヴィブラート”の歴史は、まだ百年にも満たない短いものでしかなのです。
これからチェロを習う方々、特に若い人は演奏を本来あるべき姿に戻すべく、常に理性で制御されたヴィブラートを身につけることを心がけなければなりません。
教師にとっても生徒のセンスを育てる、という意味からヴィブラートを教えるのは、とても難しいのです。

つづく