時々、生徒からヴィブラートのかけ方について聞かれます。
たとえば、この曲のどこでヴィブラートをかければ良いのですか?とか、 先生!勝手にヴィブラートをかけてもいいのですか?とか、、、
 
ヴィブラートなど自主的または自発的にかけるべきものでは?
 
私のレッスンでは生徒が、ハーフポジション及び第一から第四ポジションまで「ある程度」聞くに耐えるような音程、しっかりした音色で弾けるようになれば、ヴィブラートをどうしてもかけたくなる、あるいはかけなければ耐えられないような曲を与えるようにしています。生徒の欲求を刺激するのです。
大切なのは、曲の雰囲気に応じて、どんなヴィブラートをかけるを学ぶべきだと思います。技術的には以前にも紹介したように、それ自体はそんなに難しいものではありません。
 
レッスンでは、もちろんヴィブラートのかけ方について技術面での方法は教えていきますが、生徒自身が音に対する欲望や理想像が芽生えてこなければ何の意味もないということです。
ですからこちらとしては、その欲望をくすぐるような教材を与えているのです。
音楽の内容いかんによって自主性が芽生えたり音楽に対する興味すら失ったりします。
退屈なエチュードばかりではヴィブラートをかけようとする気すらなくします。
先生からヴィブラートをかけろと言われたので仕方がないからかけようかとか、この音符には何回かけるか、一秒間に何回が理想か、等々。これでは、いざ芸術性の高い曲を演奏しようとしてもその場にあった美しいヴィブラートを伴う良い演奏にはなかなか到達できないでしょう。
 
良い演奏など、曲に対する共感によって生まれる以外の何物でもありませんからね。
理屈ではありません。
 
しかし、経験のない者にとっては一体何を目指せば良いかなど、わかるものではありません。
 
やはり、初歩として基本は単純ですが、やはり「真似」ることではないでしょうか?
よほどの才能がない限りまったく経験なし、無の状態からヴィブラートの発想は生まれないでしょう。どこかで他のが楽器や歌でヴィブラートのかかった音色を聴いているはずなのです。
 
私は林峰男先生からチェロの演奏すべてを叩き込まれましたが、先生がいつも仰っていたことは、「僕の弾き方を真似してごらん!」とか「何故もっと真似しないんだ!」とか、、、。よほどの自信がなければこれは簡単に言える言葉ではありません。
 
しかし、いつまでたっても人の真似だけではもちろん発展はなし音楽をやる意味がないでしょう。しかし、まず受け入れてみる、自分の中に取り込んでみることは大切だと思います。後で自分の意思で取捨選択すればよいのです。
 
ヴィブラートももちろん人真似から始まるものかもしれません。人の演奏から受ける、自分もそうありたいという共感から身に付くものではないでしょうか。
 
研究と言えば格好がいいのですが、思い返せば私も学生の頃、レコードを聴いて人のヴィブラートの真似ばかりしていた時期がありました。名歌手のレコードもたくさん聴きました。
フルートではマルセル・モイーズ。チェロではその頃まだ健在であったロシアのチェリスト、ダニール・シャフランのレコードなどよく聴いたものです。彼のリサイタルも聴きに行ったことがあります。彼のヴィブラートは非常に個性的(人によればどぎついと感じる場合も)なので、とても真似ることが容易だったからだと思います。今、聴くと何となく嫌味があって、あまり美しいとは思わないのですが、、、
 
しかし、あの頃の「研究」がその後の自分にとっては役に立ったことは事実です。
 
私も、生徒から真似されるような見本を示していきたいと思います。
 
据付け写真はシャフランのLPジャケット。よくこんなに弓の先の方を持って、あのような強大な音が出るものですね。
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