◎ 前回のブログでは中田喜直の偉大な作品における日本語による言葉と音楽の完璧な融合について触れましたが、今回は最近の歌謡曲について少し目を向けてみたいと思います。

最近の歌謡曲やそれに準ずる流行歌を聴いていますと、私などよく分かっていない者にとってはどうも歌詞とメロディーとがちぐはぐ、合っていないのではないかという感想を持ってしまうのです。
一見綺麗で格好良くはあるのですが、歌詞の心的情景までをメロディーが十分に語りきれていないような曲が多いような気がしてなりません。
メロディーは綺麗にできている曲も散見できますが、やはり歌詞と音楽が合っていない曲が目立っているように思ってしまいます。
先にメロディーを作り、それに歌詞を無理矢理当て嵌めたようにも聞こえるのです。
(そのような技法は確かに存在しますが、大抵はクラシックの名曲に歌詞を付けて歌う場合がほとんどです。)ですから、聴いていてもよほど良く聴かないと何を言っているのかよくかわからない。それは日本語のイントネーションにメロディーが合っていないからです。つまり日本語になっていない。良い例は国歌“君が代”です。音楽に歌詞の韻律が全く合っていません。
日本語でモーツァルトのオペラを歌うようなものです。(これは不思議なことに日本では昔から盛んに行われています。)

そのメロディーもリズム中心的なものが多く単純で刺激的なリズムで聴衆の耳を引き付けようとしている意図は感じられますが、どうもちぐはぐで落ち着かない曲が目立ちます。刺激的なリズムによるインパクトは聴く方のメロディーに対するイメージは残りやすいとは思うのですが、音楽と歌詞とが融合された作品としてのイメージという点から考えると言葉の印象はかなり薄くなっているような気がします。つまり歌詞が心に入って来ないのです。
地道に歌詞には最も相応しいメロディーを付けていく作業をしていくべきでしょう。

元来日本語には西洋音楽が持つ均等なリズムは合わせにくく、無理矢理合わせようとすると音楽が勝つか詞が勝つか、どちらかなのです。これを合致させてひとつの作品にするためには非常な困難を伴います。しかしこれは日本語に西洋的なリズム中心のメロディーを付けようと試みる者にとっては宿命でもあるのです。
やはり曲は売れなくてはなりませんから、どうしても音楽中心でインパクトが強く斬新で刺激的なものにならざるを得ません。どうしても歌詞の方が弱くなってしまうのは仕方がないのかも知れません。
しかし、そんな時、中田喜直など先人の作曲家が成し遂げた音楽と歌詞との完璧な融合に成功された素晴らしい業績を見直すべきではないでしょうか。

中田喜直に強く影響を与えたのは、やはり言葉と音楽との完璧に融合させたシューベルトではないかと思うのです。その意味からも中田喜直は現代のシューベルトであり、バロックからヴィーン古典派の偉大な影響力を感じさせるのです。