今日は休止苻について考えてみます。
音楽において私達は普段休止苻といえば単なるお休み、休めばよい、あるいは何もない状態、極端な場合単なる「無」と考えてしまいます。しかしそれでは音楽が成立しません。単純に考えても、オーケストラなど合奏では自分のパートが休んでいても他のパートは弾いているということがほとんどです。

果たして休止苻があるからといってそこには何もないのでしょうか。休止苻とは何でしょうか。休止苻とはそれだけでは一切音楽を形作ることはできません。しかしこれがなければ音の並びが音楽にはならないのです。不思議な存在であるのは確かです。

例えば、曲の初めに四分休苻があったとします。
実際に音が響くのは次に書かれた音符からなのは間違いありません。しかし四分休符のときに感じられるのはまったく「無」ではないはずです。実際にはブレス(息継ぎ)の音は確実にあるでしょう。しかし最も大切なのは次に来るべき「期待感」であったり「予感」だと思います。
この期待感や予感が次にくる音楽の質を決定づけるのです。または来るべき音楽が演奏者や聴衆の心ににじみ出したもの、といえるかもしれません。これは一切目には見えないし聞こえません。しかし確実に存在するのです。
「愛」や「憎しみ」が見えないにもかかわらず確実に存在するのと同じです。コンピューター演奏がどんなに発達してもこの気持ちや雰囲気だけは表現不可能でしょう。コンピューターでは音が無いところは「無」でしかないからです。
つまり生きた音楽とは初めと終わりに必ず休止苻を伴うものとも考えられます。
因縁があって生まれる。余韻を残して死んでいく。まさに生命そのものですね。

演奏のコツとしては曲の1拍目から始まる場合でも常に余分に休止苻があるものとして演奏しなければなりません。
これが正しいブレスやアインザッツを生み出します。

大作曲家の直筆の譜面を見ると音符の前から既にスラーが始まっていたりするのを時々目にしますが、これなど作曲家の気持ちの表れを端的に表した結果だと言えるのではないでしょうか。彼らは譜面を書きながら心で演奏しているのです。それの表れです。聴こえている間だけが音楽ではないという典型的な例でしょう。
聴こえる音だけが音楽では決してありません。これこそが生演奏の最大の良さでもあります。

曲が終わった後の休止苻にも意味があります。
演奏による余韻が残らなければならないのです。
弾く方としては単なる物理的な余韻や残響だけでなく心に残る(聴衆にも自分に対しても)余韻を演出しなくてはなりません。
演奏者のなかには最後の音が終わった途端、弓を下ろしてしまう人がいますが、これでは決して心に深い余韻は残りません。残るのはストレスのみ。

フレーズの変わり目やフレーズの終わりにある休止苻も単なる休憩ではなく新しいフレーズへの期待感や予感であるべきです。少なくとも響きを止めてしまうのは良くありません(例外として、休止苻の前と後で和音が変わる場合は上手に前の響きを止めます。しかし決して無造作にバシッと止めてはなりません)。

最も重要なのは曲の終わりでの休止苻です。
この休止苻のために私達は苦しい練習に耐え、何十分かの演奏時間を耐え抜くのです。
できるだけ印象深く最後の音を終えたいものです。
曲の幕引きで得られた美しい印象は、演奏後数分だけでなく聴く人だけでなく演奏者にとっても生涯に渡って美しく残ることでしょう。