◎ 私達は日常生活において、これはこうあるべき、あれはああべきだ、こうに違いない、などと物事にこの“べき”だとか、何々に“違いない”“何々でなければならない…”などという窮屈な言葉を何にでも付けて物事の評価を決めつけ、自らの思考をがんじがらめにしながら生きています。つまり自らの首を絞めながら生きている。またその言葉で自分を追い込み(恐ろしいことに他人をも追い込むこともあります)限定された行動を繰り返す。そして狭い思考的行動範囲をはいずり回る、いわゆる思い込みだけで行動しているパターンが実に多いと思います。

例えば、私など初めて会った人から、あなたの職業は何ですか、などと聞かれることが時々あるのですが、そんなときわたしとしてはやはり音楽家でチェロをやっていますと当然答えるわけです。そんな時、どこのオーケストラで弾いているの、ならまだしも、大抵は、“おおハイソサエティですね!”とか、“わあ凄い!高尚な趣味ですね”だとか(趣味ではないのだ)、時には、“あっ、ジャジャジャジャーンですね?”などと聞かれたりすることが多いのです。物事にたいして、そんな程度の発想しかできない。淋しいですね。つまり、音楽はハイソサエティのやるもの、高尚な、難しい、はたまたクラシック音楽全てジャジャジャジャジャーン!と、このように決め付けてかかっています。物事を限定して考えてしまうのです。

そんな答えに接する度、このような思考形態が社会人として生きるために必要な発想すら奪っている気さえします。それは社会の歯車として本当に必要なのでしょうか。
突拍子もない発想をして社会の流れから脱落するのを恐れているとしか私には考えられません。
何か狭い箱の中をはいずり回る虫を見ているような気さえします。箱の中の虫は外界を知らない。

このような偏狭な発想を捨て、もっと自由な発想に転換することができればこの世界はもっと住みよいものとなるに“違いない”のですが…。少なくとも、もっと色々な物が見えてくるはずです。

それは音楽の世界でも同じことが言えます。世間は自由な発想を持つことを恐れているような先入観でがんじがらめに凝り固まった綺麗なだけの演奏で満ち溢れ、自由な発想で演奏しようとすると、それは即、変わり者、あるいは落ちこぼれの遠吠えなどというレッテルを貼られてしまうのが悔しいかな現実なのです。全てムードミュージックのような耳当たりがよい演奏ばかりです。つまりお利口さんは良し、それ以外は落ちこぼれの世界。
これらは全て音楽産業の金儲け主義の弊害でしかないと思います。曲がった胡瓜は売れない、つまり傷物は売れないのです。

しかし単純で綺麗なだけのものなどすぐに飽きるものですがねえ。ヒーリングミュージックのような綺麗なだけの演奏は音楽的魅力などゼロだと思いませんか?
言っておきますが、美しいと綺麗は全然ニュアンスが違うのですよ。

私はレッスンで生徒にはいつも、先入観は捨てて自分の感じるままに弾いてください、と言うのですが。残念ながら言うことはなかなか伝わらないのが現実ですね。絵でいえば太陽は赤く、海は青、山は緑に塗り潰す、といった演奏になってしまいます。
やはり市販のCDのだとかYouTubeなどの影響って凄いですね。どうしてもどこかで聴いたような演奏になってしまいます。ぜんたーい右にならえッ、とでも言うのですか?

こう弾かなければならないという強迫観念を捨てる。結果が拙くても、突拍子もない演奏でも自分で考えた解釈は尊いものだと思います。それでその作品の良さが伝わらないような曲なら、そんな曲は名曲とは言えません。
自分も含めて先入観に捕われず自由な発想をもって音楽に挑みたいものです。また作品もそれを望んでいるはず。それで真実の姿が見えてくることも多いものです。
フォルテがピアノより小さくても、アレグロがアダージョより遅くても良いではないですか。
少なくとも音楽では先入観というサングラスは外しましょう。

終わり