其ノ一

以前、「才能とは?」というタイトルで、才能について私自身が今現在考えていることについて少しお話をしたことがありますが、今回は前回の補足及び教師としていかに、その才能を発見し伸ばしていけば良いかということについて再び考えてみたいと思います。

さて、私にはこんな才能があります、あんな凄い才能があります、と自ら公言する人など、あまりいないのではないでしょうか。もし言葉に出して言えるような才能なら、その才能などたいしたことがなかった、ということは多いものです。それほど才能とは曖昧、微妙なもので、捕らえ難いものです。自分では自覚がむずかしく、結果そのことによって、人は簡単に騙されてしまいます。才能という力を誤解してしまうのです。

以前も申し上げましたが、もしモーツァルトが自分自身に音楽的才能があり、かつ大天才である、という事を自覚し公言などすれは、その時点で彼は“ただの人”になってしまい、あれだけの名曲の数々は残さなかったでしょう。
彼ら天才達は自分の知的好奇心を満たしたいために曲を作り続けたのです。
私達の場合、就職活動などで自分をアピールする場合など、履歴書や面接で口先では、有ること無いことを大袈裟に言ったりする場合もあるかも知れません。しかし、本来自分にはどんな才能が自分にはあるのかなど、なかなか自覚できるものではなく、こんな資格や、あんな特技を持っているなどという単純な次元で論じられる問題ではありません。また向き不向きなどという適性の問題でもないのです。
その人にはどんな才能が隠されているのか、それはあくまで“他人”の目でしか解らない事なのではないでしょうか。もしも自覚できるとすれば、自分ではその事柄が何となく好きとか、何となく気になる、程度でしか自覚できず、フィーリングが合うというインスピレーション程度の曖昧なものでしかわからないのかも知れません。
普通、人には(たとえ凡人にも)、いろいろな才能が必ずあるものです。
しかし自分にとって最も大切にしなければならない才能と言える部分(時には天才的であることもあります)については、残念ながら、大抵は自覚できずに死んでいきます。死ぬ間際にでも気がつけばその人は幸せでしょう。でもそれは不可能です。
自分の陰を追うようなもので、追い求めてもこれこそが自分の才能だということはなかなか自覚できない、それが“才能”だと思います。
才能とは、その人の後天的に培われた人格や行動的習慣から由来するものが、先天的な遺伝子情報のような持って生まれたものとがうまくドッキングしたものであるといえます。しかし人は何らかの才能を必ず持って生まれてきます。つまりなにかの“指命”を持って生まれてくるということではないでしょうか。私はこれこそが才能と呼ばれるものではないかと思っています。神から与えられた指命、それに後天的になんらかの良い影響や刺激を受け、表面化して(他人の目によって)人生に大きなプラスとなり、それらはさらに成長する。
これはその人が持つ才能が最大限生かされる最高のパターンでしょう。あるいは死の間際に、ああ自分の指命はこれだったのか、と気がつきつつ死んでいく。これでも幸せです。それすら叶わないのが大抵の人間が辿る道です。

つづく