◎ 皆さんは普段、歌を唄いながら生活をしていますか?

しかし、自分は毎日歌っているとおっしゃる方も、気分が良いときに 鼻歌を歌うかせいぜいカラオケで歌う程度ではないでしょうか。
まさか朝から晩までオペラのように歌いながら生活している人などいないと思います。

まさに、それが音楽にも共通しているのです。つまり、常に歌ってばかりでは音楽にはなりませんし、高らかに歌いあげるばかりの音楽なんかすぐに飽きてしまいます。
オペラの世界でも、ただ声を張り上げて歌っているだけでは“テノールばか”と言われかねません。

普通のトーンでの会話であったり小声でしゃべったりする行為こそが人間の普段の生活なのであり、四六時中演説のように話す人もいません。
演説では何が大事な事かそうでないのかがわからなくなってしまうからです。
大事な用件ははっきりと丁寧には話しますが、決して怒鳴っては伝えないはずです。

音楽もそれと同じで、初めから終わりまで同じ音質で歌いっぱなしでは音楽のストーリーが成り立たないし、聴く人に対しても何が言いたいのかが伝わらないものです。
オペラ歌手でも本当に素晴らしい人は、ただ美声を張り上げるだけでなく、しっかり音楽で語り喋れる人です。
いつも歌って、もっと歌って!と怒鳴る指揮者がいましたが、あれなど無知丸出しですよね!何でもかんでもただ大声で歌っていれば音楽になるというものでもありません。
以前にも申し上げたことがありますが、話し言葉の抑揚と同じように、音楽にも大事な音とそうでない音が必ずあります。厳格な階級の世界でもあり、すべて平等など全く有り得ないことなのです。

さて、音楽の好みの面で言えば、時々、チャイコフスキーやラフマニノフなどのロシア音楽や、ドイツ系ではヴァーグナーやR・シュトラウス、チェコではドボルジャークやスメタナ、イタリアではヴェルディやプッチーニ、これらの作曲家の作品が異常に好きな人ってどこにでも必ずいますよね!彼らの言い分は、これらの作曲家の作品は常に美しいメロディーにあふれている、そしてそのメロディーに思わず引き込まれてしまう、だとか、何と言ってもその大迫力に圧倒されてしまう。と、まあこんなところでしょう。事実彼らの作品はメロディー主体で歌に溢れているのです。
それは例えるなら四六時中愛を告白しているようなもの。いつも甘い言葉をささやかれているようなものです。いつも愛など告白されれば飽きますよね?その告白自体も安っぽく感じてしまいます。スメタナの“モルダウ”やチャイコフスキーの作品を二回続けて聴く気になりますか?プッチーニのオペラを二晩連続で見たいですか?歌ばかりの音楽は飽きるのです。

また、ここに挙げた作曲家の作品もある意味間違って解釈されているとも言えます。演奏する側はもっと“語る“部分に光を当て、大事な音とそうでない音を区別して感じ取ればもっと違う面が見えてくると思うのです。メロディーの演奏法を洗い直す必要もあります。
演奏家にはそれらメロディーメーカーの汚名を着せられた作曲家のイメージを払拭する使命もあると思うのです。

続く