演奏の基本とはいったい何でしょうか?
それは音楽の本質に関わることでもあります。

そんな小難しいことは言わずに端的に言えば、演奏の基本とは「合奏すること」です。
言い替えれば、「ひとつの作品を通じて共演者と共に感動や喜びを分かち合うということ」。これは人類にとってある種の快感でもあります。この快感を求めて人は今日まで音楽を発展させてきたとも言えるでしょう。はるか太古の昔、洞窟で声を出すと声が天井に響いて自然倍音が生まれることに気がついた。それがとても気持ちよく、洞窟の外でもその時の気持ち良さを味わってみたいために他の人と違う音を出してみると、また同じような響きを再現することができて気持ちが良かった。これが病みつきとなり音の組み合わせがどんどん複雑化していった。
器楽においても最初は木の棒で物を叩くと意外と音が良いことに気がついた。ただそれだけだったでしょう。
それを複数の人と合わせると
もっと複雑なリズムが生まれることに気がついた。それがとても面白かった。
アンサンブルの始まりはおよそこんなものだったと思います。どんな説があろうとも、その時人類は人と同じ感動を同時に共有する喜びを感じたことだけは確かなことだと思います。

他人と芸術作品を介して感動を共有する、なんて素晴らしい事なのでしょう!
これが合奏することの真髄、基本中の基本です。

チェロやヴァイオリンなど旋律主体の楽器には無伴奏で演奏する作品もあることはありますが音楽史的にみてもその作品数は極わずかで、それは特殊な演奏形態だと言わざるをえません。決して主流とはなり得ません。
弦楽器や管楽器など旋律が主体の楽器はいつも人とお喋りしているようなもの。しかし時には自分の世界に閉じ籠り何かを呟きたい、また時には大上段に振りかぶり自分の考えを主張したい、そんな時に人は独奏するのです。そんな要求のためにソロの作品が書かれたのでしょう。ピアノやオルガンなど和音を主体とする楽器はいつも自分が主体。いつも演説しているようなもの、または独り言を呟いているようなものです。でもたまには人と会話したくなるのです。時々人恋しくなってピアノトリオなどのアンサンブルをやりたくなる。そのために多くのピアノが入った室内楽が誕生しました。

大抵の音楽は何らかの形態を伴った合奏です。つまり、会話なのです。チェロソナタしかり、ピアノコンチェルトしかり。ポップス、演歌すべてそうです。

ピアノ独奏を含めてひとつの楽器の無伴奏曲の演奏はあくまでも自分との対話、つまり自問自答の世界です。修行僧の荒行のようにとても孤独な作業なのです。聴衆は修行を見守る信者のようなものかも知れません。
聴衆はあくまで傍観者に過ぎないのです。ビルスマは、例えばバッハの無伴奏チェロ組曲は聴衆が聴く事によって作品が完結すると言ってますが、やはり音楽は演奏者自身の頭のなかで完結するものではないかと思います。

演奏は聴衆に聴かせることが第一だと思われる傾向がありますが、それは違います。聴かせてなんぼ、では考えが乱暴すぎる。まず自分演奏者がまず納得できる、そして感動できることが第一なのです。聴かせることばかりを中心に考えていると作品の良さは失われていきます。これは断言できます。
まず理解のある聴衆とは共演者ではないでしょうか。素敵な会話に酔いしれる、そこに傍観者つまり聴衆が口をはさむ余地はないのです(たまにヤジを飛ばす人もいますが)。その楽しい語らいを楽しく見守る、それが聴衆の立場です。したがって最大の理解者は共演者だということです。
よく、ヨーロッパなど公園でチェスをやっている人を見かけますが、そんな時、大抵ギャラリーができるものです。
あの時、ギャラリーももちろん楽しいのですが、一番楽しんでいるのは対戦している二人だけなのです。どうです?どこか音楽と似ているでしょう?
音楽は人と人とのコミュニケーションをとることに意味があるのです。強烈な社会性のある芸術ともいえます。

そこで最も簡単に合奏できるのはデュエットです。古くからデュエットはレッスンの要でした。レッスンでデュエットをしなくなったのはこの百年くらいのものでしょう。
なぜか? それは演奏が聴かせることが主流になったためです。レッスンも教師が一方的に教え込む、いわゆる叩き込みのレッスンになってしまったからです。

続く