其ノ三
幼かった頃

母は米が大好きでしたので、我が家ではご飯はいつでも食べられる状態でした。母は今でも言いますが、常に温かいご飯が炊けていないととても惨めな気分になるのだそうです。すなわち母にとってご飯は豊かさの象徴であり、日本がまだ貧しかった時代を生き延びた世代ならではの感覚なのでしょう。
日本では米が主食だとはよく言ったものです。私の幼かった頃の昭和30年代に入っても、我が家のような貧乏人にとって食事といえば米を食べることだったのです。塩分の多い少量のおかずで大量の飯を掻き込む、おかずが足りない時は塩か醤油だけで食ってしまう(たしかに美味しく炊けたご飯は塩だけでも十分美味しいですよね)。梅干し一個で丼飯一杯食う。これが当時の庶民の食生活でした。
塩分を控える、糖質を摂りすぎないよう気をつけて、などという健康志向的な考え方などどこ吹く風、どこにもそんな発想はありません。とにかく腹一杯になればそれで幸せ。それが私を取り巻く環境でした。
まことに単純な発想ですね。世間的にも煮物や焼き魚や煮物は塩辛いもの、お菓子は凄く甘いものという固定観念は当時の人には誰にでもあったように思います。
私の母は“ぜんざい”を作る時など砂糖だけではものたりずサッカリン(当時、甘味料としては一般的でしたが、有害物質なのでやがて発売禁止になりました)などの人工甘味料までいれておりました。今でもあの物凄い甘さは覚えています。
それだけ物のない時代を生きた母にはあの強烈に甘いぜんざいは貴重であり、砂糖は憧れだったのでしょう。母はいつも今のお菓子は甘くなくなったと歎いております。

子供の頃、偏った味覚、偏食傾向の家庭で育った私は小学校に上がってまず最初の苦悩を味わうことになりました。それは給食です。それまでに食べたことがない物が次々出てきたものですから、もうパニックです。味付けも家に比べて薄味で、臭いのもやたらと気になります。食べられるものがなく、給食は苦痛の時間でした。今の給食はかなり美味しくなっていると聞きますが、私の頃のそれはまるで家畜の餌以下でした。あれが原因でかえって好き嫌いの人が増えたのではないでしょうか、今でも思います。私の時も給食が口に合わないという人も沢山しました。当時の担任は完食するまで許してはくれなかった。食べられない生徒は掃除の時間になっても教室の隅に追いやられ、冷めた給食と睨めっこ。まさに拷問です。
「おいッ!川内、俺がほってきたるわ!」そんなとき級友が担任の目を盗んで給食を捨てに行ってくれましたっけ。
“ほってくる”、とは大阪弁で捨ててくる、という意味です。
当時の給食に付き物の飲み物は、かの悪名高き“脱脂粉乳”。
これは臭かった!
これは当時敗戦国日本の子供の栄養不足を解消するためにアメリカ軍が放出してくれた家畜用ミルクで、私が小学校三年生の頃まではまだ給食に出されていた記憶があります。元々豚に与えるミルクなのですから味のことなど考えて作られておりません。それを温めてあるものですから、もう臭くて臭くて!あまりの評判の悪さからか、最後の頃はココアを混ぜたものが出されましたが、それでもまずい事には変わりなかった。私と同年代の方ならよく覚えておられるでしょう。

この脱脂粉乳をめぐって給食の時間は修羅場と化するのです。

つづく