其ノ五
父の思い出、鯨とウスターソースの哀しみ

昭和30年代、庶民の蛋白源は何と言ってもクジラでした。
いまではクジラは高級食材ですが、当時我が家のような貧乏人の蛋白源はもっぱらクジラだったのです。
小学生から中学生の頃にかけて我が家の夕食にもクジラは沢山食卓に出てきました。
食べ方はステーキか醤油の漬焼き。皮は“コロ”といって“おでん”や水菜の煮物に入れます。偏食で調理法をあまり知らない母はこれしかできません。
ステーキといっても、フライパンで鯨を焼きウスターソースをじゃぶじゃぶかけただけ。料理とも言えないものでしたが、母はこれを“ビフテキ”と言っており、長年私はこれがビーフステーキだとばかり思っておりました。騙された!

話は逸れますが大阪の庶民はなぜこうもウスターソースが好きなのでしょうか?それこそ何にでもかけます。ステーキは勿論、炒め物全般、カレー、シチュー、目玉焼き、豚まん、ちゃんぽん、焼きそばはソース焼きそばなど、他府県の方が聞けば腰をぬかすでしょう。私が目玉焼きを塩コショウで食べたのは、後に述べる広島出身の妻と結婚してからのことでした。
ちなみに大阪で好まれるソースのメーカーはオリバーかイカリソース。関東方面はブルドッグか主流だそうですね。
広島はオタフクかカープソース。
九州はソース文化がないので印象がありません。

さて、ここら辺で私の父を紹介しましょう。父は大正五年、大阪市都島区の裕福な商売人の家に生まれ、自由な雰囲気の中、なに不自由なく育ってきましたが、日中戦争と大東亜戦争にも召集され、中国や東南アジアを転戦し、生き地獄を体験して命かながら生き延びてきた苦労人でした。しかし生まれもっての育ちの良さは、その壮絶な経験にもかかわらず、どんな時も常にもの静かでした。壮絶な苦労を体験したからこそ、どんな時にも動じなかったともいえます。
美術をこよなく愛し、特に絵画にその卓越した感性を発揮させました。いろんな美術展にも入選したり四コマ漫画を新聞に投稿したり、幼い私はそんな父がとても自慢でした。私が音楽をすることについてももちろん理解をもって応援してくれました。
そんな父のいつも言っていたことは“常に美しく”と“既成概念に囚われないこと、でした。佐伯祐三を尊敬する父の描く画はとても気がこもっておりました。いつか行ってみたいとパリに憧れておりました。
家庭環境もあったのでしょう、そんな父は子供の頃から、当時では珍しく洋食中心のハイカラな食生活を送っていたようです。
その影響からか私もほんの幼い頃から鯨の“ビーフステイク”をナイフとフォークを使って食べる練習をさせられたものです。いろんな洒落た食べ物を知っていた父がどうしてあの極度な偏食の母とうまくやっていけたか。それは父の優しさだけだったのです。いつも母が中心、偏っていようと母の作るものはすべて文句一つ言わず喜んで食べていました。働く父に母はたびたび牛肉を食べさせていました。調理法はフライパンで肉と玉ねぎを焼き、これまたウスターソースをじゃぶじゃぶかけただけの物。父はこれを好んで食べていました。
洋食を知らない母にとってウスターソース、イコール洋食だったのです。
その父は35年前に亡くなりました。

つづく