皆さん、こんにちは!チェロ講師の川内昌典です。
世間では新型コロナの影響がまだまだあるとはいえ、季節は秋。10月に入り教室の方も新しいレッスン場所も決まり、ようやく普段の落ち着きを取り戻しつつあります。私も精神的に落ち着きましたので、約1年ぶりですがやっとブログを更新する気分になりました。
そこで、私は何をまず皆様にお伝えしようかと色々考えました。やっぱり久しぶりですので教室の近況をお伝えするのがいちばん良いのでしょうが、やはりまず私が最近見たり経験したことを書くのが、現在の私の考えを理解していただくためには最も良いと判断しましたので、さっそくその線で書き進めてみたいと思います。
さて私は、バレエ関係の仕事をするある女性と今年の8月に結婚しました。その新しい妻と同伴して最近、それまで弾く機会はたくさんありましたが、いままでほとんど見たことがないバレエ公演を見に行くことが増えました。
つい先日も、某演奏会においてチェロとピアノの伴奏でバレエのデュエットを踊るという演目を観賞しました。曲はロシア人作曲家による有名なチェロソナタの第三楽章でしたが、いろんな意味で考えさせられる演奏でした。
既成の曲に新たにバレエを振り付けるということは、よく行われることですが、これについてはまた機会があれば私の考えを述べさせていただきます。
今回、私がどうしても納得できない、あるいは違和感を感じたのはチェロソナタの演出だったのです。
本番では大ホールの舞台下手側にチェロとピアノが配置され、ダンサーは舞台の中央で踊る、これは普通誰でも考える演奏形態でしょう。
しかし、私が最も驚いたのはチェロにPAが付けられていたということです。PAとはすなわち音響機器のことですが、演奏を聴いてみると、チェロの音だけをマイクによって必要以上に増幅した演奏。なぜ、こんな乱暴なことをするのか私には全く理解不能です。異質なチェロの音のみ浮いてしまい、肝心のチェロの音もチェロとは思えないような品のない最悪な音になってしまっていて、私にとってはなんとも落ち着かない、居心地の悪い時間となってしまいました。素晴らしい踊りを完全にぶち壊した演出に私は失望し完全に叩きのめされました。
それではまず、演出家はなぜこんな演出を考えだしたのでしょうか?
それは単純に、チェロの音がピアノに比べてが小さかったからでしょう。
この曲はピアニストが書いた作品だけあって、ピアノのパートがとても分厚く書かれてあるのです。つまり音符が多い、ということ。
この作曲家の書いた他の作品、例えばオーケストラの曲でもとても音が多く、重厚な??響きがします。
普通、音が多ければ、大抵は音が重厚、あるいは音が大きくなると考えるのが人情です。またピアニストも音符が多く真っ黒の楽譜を見れば、さあ頑張るぞとばかり、ど根性でピアノの鍵盤を叩きまくるかもしれません。
実は、この意味のない変な頑張りや根性こそ音楽には大敵なのです。
まず基本的に理解していただきたいのは、音とは積み重なれば積み重なるほど柔らかに淡く弾かなければならない、ということ。これは音響の特性としてはっきりしています。力や根性だけでは全く理解不能。本来の姿は見えて来ません。
では、ひとつ実験してみましょう。
例えば、ピアノで真ん中のド(c)の音を弾きます。これだけでは音色が単純で、どちらかというと鋭い音がします。しかし、次に3度上のミ(E)の音をドの音と同時に弾いてみましょう。どうでしょうか?急に音に広がりを感じ、柔らかくなったような気がしませんか?
次に、先ほど弾いた時よりももっと柔らかく(弱く)弾いてみます。もっと音に広がりを感じられたのではないでしょうか。さらに同じようにしてソ(G)の音を加えます。同じようにさらに柔らかく弾けばますます音に広がりや豊かさが感じられるでしょう。
これはチェロでも実験することができます。
例えば、解放弦一本では単調で響きにはそんなに広がりは感じられません。しかし、隣の解放弦一本を同時に鳴らすと、まるで世界が変わったようにチェロが響きだします。
弓を弦に押さえつけないように軽く鳴らせば、さらに豊かな響きになるでしょう。複数のチェロで試してみるともっとよくわかるでしょう。その時は必ず音が増えるごとに音量を落としてみてください。
響かせるコツが把握できたら、さらに色々な和音で試してみましょう。
オーケストラでも、今試したように全員が軽く力まず弾けば、響きが柔らかい風のように聴衆はもちろん、演奏者も包み込んでくれるはずです。
このように、音とは増えれば増えるほど柔らかく弾かなければ決して豊かな音にはならないのです。決して強さでは柔らかな響きは生まれません。例えば一般的にf(フォルテ
)は強く、と解釈されますが、、私などは豊かさや幅広くと解釈する、いわば発想用語の面もあると思っています。
しかし、世間では音が増えれば、その分強く弾かなければならないと勘違いしている演奏者がほとんどです。フォルテが見えると条件反射的に力まかせに弾いたり歌ったり(怒鳴ったり)します。また他人に負けじとばかり輪をかけて大きな音で弾こうとする。そこから出る音は天に昇らず地に落ちてしまいます。
そんな音でも人は何の疑問も抱かずコンサートに馳せ参じる。残念ですね。
話を先ほどのチェロソナタに戻しましょう。
ではなぜ、チェロの音が聴こえないような曲を作曲家は作ったのでしょうか?
いいえ、そんな曲を作るはずがありません。
あるチェロの大家はこの曲を演奏するにはピアノ1台に対して、チェロは10台必要だと冗談で言ってますが、話はそんな単純なものではありません。
つまり、楽譜に対する基本的な見方や感じ方を誤っているのです。
演奏の鉄則、それは音が増えれば淡く弾く、ということ。
言い換えれば、音と音とを調和させる、ということ。合奏では常に相手をたてる。決して、割れ勝ちに弾いていても音楽本来の姿は見えては来ません。これは人間社会でも同じことが言えるのではないでしょうか?我を通してばかりでは、争いや不和のもとになるのは当然のことです。戦争も起こり得るのです。
弱い者を叱咤激励、無理やり引っ張り上げるのではなく、弱いパートを力ずくで強く弾かせるのでもなく(せっかく淡く弾いている楽器の音をマイクで無理に拡大するのではなく)、弱い者に寄り添うのです。それが社会の調和であり、芸術作品の本質を理解する近道でもあるのです。
今回、たったの数分間の短い曲の演奏でしたが、アンサンブルとは何か、音と音との調和について、いかに楽器を響かせるかということはもちろんのこと、いかに人と人との調和をとるか、ということまで考えさせられる機会を得ることができました。
その日のコンサートの後は新しい妻と久しぶりに外食を共に。ホールの近くにある美味しいイタリアンレストランで食事をして帰りました。
Comments are closed.