◎第一話
イネガルの発想
イネガルとはバロックの時代、特にリュリの活躍するフランスで流行した演奏法のことです。
例えば記譜法上、音価が均等に並ぶ音符があったとすると、わざとリズムをずらして(崩して)弾くのです。例えば、八分音符四つが均等に並んでいたとすると、私達は普通タタタタと均等に演奏します(これが良い演奏にとっては普通であってはならないのですが)。しかしイネガルではタータタータとかタタータターとなるのです。また符点のリズムでは短い音符が長くなったり短くなったり、つまり複符点や三連符のリズムになったりするのです。私達には馴染みの薄い発想ですが、当時の演奏家は何のためらいもなく当然のごとくこの奏法を取り入れておりました。当時のフランスは音楽の先進国で、当然ドイツの演奏家にも盛んに受け入れられました。
この伝統や習慣はロマン派の時代まで脈々と受け継がれたのです。
では何故このような奏法が流行したのでしょうか。
人間には本能的に、規則的に並んだり連なったりする現象に出会った時、連続性を感じる能力が麻痺してしまい、止まっていると錯覚してしまう特性があります。
皆さん、こんな経験ありませんか?
例えば、電車に乗った時、隣の線路のレールの下にある枕木を何気なく見ていると、初めは一本一本並んでいるなと意識できますが、そのうち太い一本のベルトのような物が切れ目なく敷かれ、その上に二本のレールだけが静かに置かれているような錯覚に陥ります。すべてが止まって見えるのです。
あるいは車などで真っすぐな道を走っていると、やはり一本のベルトのような帯として感じてしまいます。やがて眠気に襲われたりします。これらはとても危険なことで、電車の乗客なら眠ってしまえば良いのですが、車の運転ではそうはまいりません。特に高速道路なら意識的にカーブを作ったり、不規則に植え込みを配置したり、なかには道路の材質を不規則に変えて振動によって意識に刺激を与えるなどの工夫がされています。
音楽も全く同じで、同じことをただ単純に繰り返すだけだと止まってしまったような錯覚に陥ります。
ですから均等な時間的な句切が中心となる音楽では、リズムを崩すというやり方が取り入れられるのは当然のことなのです。おそらく自然発生的なものでしょう。
楽譜に書かれたことをそのまま演奏するということが美徳であると一般的には考えられていますが、均等に書かれたことを均等に演奏してしまえば音楽にはなりません。均等には聞こえないのです。
楽譜通りでないことが逆に楽譜通りだということも有り得るということを分かっていただきたいと思います。
人は規則性を崩した時に初めてそれが規則的だと気がつくのです。楽譜にはすべてのことは書けません。その理屈を理解し演奏する、それが楽譜に忠実な演奏でもあるともいえるのです。
このイネガル的発想は奇しくもジャズのテクニックとして生かされています。
それはスゥイングです。均等に書かれた音符は必ず崩してスゥイングします。スゥイングする場所や雰囲気は演奏者のフィーリングに任されます。もしこれを楽譜に書いてしまえば音楽はほんとにつまらないものになってしまうでしょう。楽譜には書けないところがあるのが音楽の良さや楽しさでもあるのですから。
Comments are closed.