今月の24日、西宮でピアノ三重奏曲を演奏するコンサートがありました。
モーツァルト最後のピアノ三重奏曲、ト長調k.v.546を弾かせていただきましたが、とても難曲であることを改めて実感させられました。
何が難しいのかといえば、現代のピアノという楽器でモーツァルトの作品を再現することの困難さがまず第一、次に楽譜に書かれている数多くの記号や表情記号、そしてテンポをどのように捉えるかということにつきます。

今日はまず現代の楽器でモーツァルトを弾くことの困難さ、つまり窮屈さについて書いてみます。

K.V.546といえばモーツァルトにとってはすでに後期の作品といえますが、その頃のピアノという楽器は現代のピアノのように骨格が鉄製ではなく木でできていました。したがって音も柔らかく弦楽器にもよく馴染む音色でした。反面、音の立ち上がりは鋭く繊細です。現代のピアノとは音色の本質が異なる、まずそのことを基本として認識しなくてはなりません。

そして、本当にモーツァルトが頭に描いた音色を味わおうと思えば、当時の仕様で出来た楽器を使うしかないのです。(しかし、オリジナル楽器を使ったから、それだけでは正しい演奏にはなりません。残念ながらそういった演奏はよく見受けられます。)

オリジナル楽器を使う、しかし身の回りに、そう簡単にはオリジナルの楽器は見当たりません。やはり現代の楽器を使うのが一般的ではあります。そこに難しさかあります。水と油のように違う楽器同士を、いかに融合させるか、
また、いくら現代の楽器を使っても、その芸術性が失われないのは作品の良さからくるものなのでしょう。それに触れる時が唯一救いでもあります。ただし、それは正しく(正しく楽譜を読み)弾かれた場合に限り、道は開かれますが、

現代ピアノでは色々と制約があります。普通は古楽器の方が制約があるように思われますが、まったく反対です。
例えばフォルテひとつをとっても、現代のピアノでは音色が単色になりやすいのです。
どうしても強いか弱いかの差しかなくなってしまい、ニュアンスの差を弾き分けようと思えば、確実なテクニックと大変な努力が必要となります。まず第一に音楽のイメージを持てなければならないでしょう。これは弦楽器も全く同じです。

ピアノの音色は鍵盤を叩いた瞬間で決まってしまいます。
弦楽器のように音に遊びがないというか、クッションがありません。それだけシビアなものなのです。木製フレームと鉄骨フレームの差は確実に出てくるでしょう。

次に、この作品について申し上げますと、初期の作品と比べると弦楽器とピアノが一段と独立し、その掛け合いがさながらコンチェルトを思わせるものがあります。ピアノの音符の数も弦楽器に比べると遥かに多く書き込まれています。昔は音の弱かったピアノを弦楽器に対抗させる唯一の方法でもあったのですが、それは、現代のピアノで弾く時は、時々バイオリンとチェロだけのソロになった時など特にピアノとの音色の格差を感じる瞬間でもあります。これは直接ベートーベンの音楽へのと受け継がれていきますが、ベートーベンでは遥かに弦楽器との融和が計られております。
モーツァルトのこの曲の場合、書かれた通り同等の音色音色で弾いてしまえば、音が小節の枠に入りきらず、とても窮屈な思いに至ることになるのです。大切な音とそうでもない音とを瞬時に弾き分ける訓練が必要不可欠となります。音が弱いからとオリジナルピアノでガンガン弾いてしまえば、これも無意味、ナンセンスとしか良いようがありませんが、、

それでは24日の演奏はどうだったのか?
短い練習期間でしたが、必要な音、光があたる音とそうでもない、言わば影に隠れるべき音との弾き分けの練習で現代ピアノでも、すっきりした耳に心地よい演奏が可能だと再確認できるような演奏になったと自負しております。。