◎其ノ二
音楽と飢餓

前の章では下手物と大食いとの関係や飢餓のことについて少しお話しました。
今回はさらにそれらと音楽に関わる問題について考えてみます。

世間の一般市民の間には本当に美しい音楽で満たされているのでしょうか?
 美しい音楽がそれを必要とする人に行き渡っていると言えるでしょうか?

それは甚だ疑問です。
世間は相変わらず雑音(特に可聴外低周波による雑音は心身ともに蝕みます)で満たされていますし、BGMなどにより人の意思に反して強制的に音楽を聞かされている状況は続いております。
今流行の曲もメロディーも歌詞もちんぷんかんぷん、演奏することでストレスを発散でもしているかのように大音量でがなり散らしています。何を言いたいのかさっぱりわからない下手物的音楽が街に蔓延り、それをうるさいとも感じない日本人が増え過ぎた現代。どうなっているのでしょうか。正に音楽の飽食の時代とも言えるでしょう。

本当に癒しを求めている人に美しい音楽が行き渡っていない現状。クラシックのコンサートへ行っても癒されることは稀で、高い金を払ったのだから良いコンサートだったのだ(だったに違いない)と自分に言い聞かせて納得するばかり。そもそもクラシックのコンサートすべてが正しく美しいということは幻想でしかありません。学校の先生が聖職だというのと同じです。
それが日本の現代社会なのです。
現代は音楽における飽食と同時に飢餓状態の時代でもあるのです。

街を歩いてもBGMで溢れています。
それが街の雑踏や車の騒音に加わり、雑音の増加に拍車をかけている現状を見ても音楽がいかにぞんざいに扱われているかがわかるでしょう。

テレビを見ても音楽の嵐です。クラシック音楽もCMには実に沢山使われていますね。しかしそのクラシック音楽はCMのオリジナルミュージックであると思っている人ばかりで、別の独立した芸術作品であることを知っている人など極少数ではないでしょうか。こんな音楽に鑑賞の余地は無く飾り物や添え物でしかありません。すべて雑音と同じになってしまうのです。例えばいくら美味しい蟹でもほんとうに上手に食べないと、みなゴミになってしまって何を食べたかわからなくなってしまうでしょう?あれと同じです。

何故このような現状に陥ったのか?
それは日本の音楽産業の隆盛によると言えるのです。
日本には音楽ビジネスの確固たる基礎があります。
ビジネスなので売り込まなければならない。演奏者の下にそのスタッフを含めるとその何倍もの携わる人がいるのです。
その人達を養わなければなりません。
この構図が無くならないかぎり、音楽の雑音化という現象は成り立たないのかも知れません。
これを改善するには皆で雑音のような音楽は要らないと声を上げ、聞かないということを心掛けるしかないのかも知れません。時間はかかりますが。

暴走族を見に行かないということと同じように。彼等は見るからさらに暴走するのです。

続く