バッハの無伴奏チェロ組曲を弾いていると、まず楽譜に書かれているボウイング(弓遣い)の多様性に驚かされます。この場合の楽譜とはあくまでもバッハの二番目の妻、アンナ・マクダレーナが書き写した写本のことを指します。
バッハ本人の直筆の楽譜が失われてしまった今日、残念ながら私達はこの写本にす頼らざるをえません。
バッハの無伴奏組は少し前までは、ベッカー版やバズレール版などのようにスラーを全く違ったものに書き換えられてしまった楽譜で演奏するのが主流でしたが、現在の古楽演奏の隆盛やビルスマなど名演奏家の活動によってバッハが書いた音楽の真実の姿の再発見、その楽譜の重要性がようやく広く認められ始めたことは喜ばしいことだと思います。
しかし実際バッハが書いたものに限りなく近いといわれるアンナ・マクダレーナの楽譜で弾いてみると、現代の我々が馴染んでいる弓遣いとはかなり異質であることに気づかされます。それが現代の我々のボウイングの慣例にはない多様性なのです。
楽譜を見てまず気づくことは、細かく切られたスラーが多いこと。つまり2つや3つの音符にかけられるスラーがとても多いのです。小節線を越えてかけられることはほんの僅かしかありません。このスラーから醸し出される雰囲気とはなんでしょうか?
それは人が話しているようなイメージ。つまりバッハの音楽のイメージは人の会話だと思います。後の時代の作品にあるような朗々と歌い上げる音楽では決してないのです。表現の次元が異なります。
そこで実際、語りかけるようにバッハの音符をチェロで弾こうとすると、楽譜に書かれているボウイングではとても弾き辛く、バッハが書いた音符の意味がわからない。そんなことがよくあるものです。
なぜでしょうか?
やはり、バッハと現代とではまず楽器や弓が異なるということです。異なる点を大雑把にあげると、昔の楽器には裸のガット弦(動物の腸で作られた弦)が張られ、チェロの場合エンドピンの棒が無く、脚のふくらはぎで支えていました。
弓も現代の物よりもしなりの少ない硬くて重い材料で作られていました。
本来、バッハの音楽を本当に実感しようとするのならバッハが生きた当時の楽器の状態で演奏すべきなのだとは思いますが、それはなかなか難しい問題でもあります。しかし簡単にできる方法もあります。それは、弓をバロック時代の物(コピーの物で結構です)で弾いてみるのです。
バッハの無伴奏を現代の弓で弾こうとすると、どうしてもその複雑なボウイングのため弓が引っ掛かったりして演奏がひどく困難になることが多いものです。現代の弓は、そのしなりの良さによって粘っこい音を出すのには向いていますがバッハの無伴奏が求めるような小回りの良さが求められる音形には不向きなのです。そのため現代の校訂された楽譜ではできるだけ多くのスラーで音を繋ぎ、音の進行を滑らかにしているのです。
しかしそれでは音楽が違ったものになるのは必至です。
その困難を簡単に解決してくれるのはバロック弓の使用なのです。バロックの弓は現代のような強いしなりは無く、むしろ弓の毛のしなりによって演奏されます。しなりが少ない分、運弓が軽くどんな複雑な音形にも対応できるのです。和音の表現には特に力を発揮します。
このような音の特長はなにもバッハのものだけに限られたものではなく後の時代の曲にも使われているのですが、時代が音量や音の粘りばかりを求めるようになった結果、弓はモダン弓へと変化していったのです。
写真が表すのはバロック時代から現代へと変遷する弓の形状です。(本当はもっと多くのスタイルがあります。)
上からバロック、古典、そして19世紀中頃確立された現代の弓です。
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