Op.2-6
繰り返し、リピート、写譜
ただ繰り返す、というだけのことなのですが、これがなかなか一筋縄ではいかない、多くの問題を含んでおります。
その昔、私がまだ録音の仕事を沢山やっていたころ、繰り返し記号には散々苦しめられました。
苦しんだというより、自分の不慣れや不注意で周りに迷惑をかけたという方が正しいかもしれません。それが心苦しいというだけです。
この手の仕事では、繰り返し記号だけでなくセーニョマークやコーダマークといって場所を飛び超えて演奏する記号がやたらと多いのです。例えばダルセーニョマーク1、2、3 。コーダマーク1、2、3等。その他、ダカーポ時のリピートは四回繰り返してとか繰り返さないでとか…。行ったり来たり。四回繰り返すということは五回同じことを弾くのか!そもそもいま何回目?!…等々。アーッ!今どこやってるの?たちまち迷子に!頭が痛くなります。
写譜代や五線紙の節約もあるのでしょう。なるべく少ないページ数に収められるよう工夫されているのです。写譜とはスコア(総譜)からパート譜を作成する作業のことで、専門の業者があります。
私も写譜のアルバイトもやった経験があり、その辺の事情はよくわかります。
写譜の質で演奏での疲労感がまったく異なります。
ベートーベンの時代も事情は同じで、自分の書き癖を理解してくれる良い写譜屋に恵まれることはベートーベンのような悪筆な作曲家にとっては死活問題でもありました。また紙もとても貴重品で、バッハなどひとつの作品の余白に別の作品の断片を書き込むということもしばしば起こりました。
バロックの時代、繰り返すことは、少ない紙面でも長時間の演奏を可能にしました。初めの頃の器楽曲は舞踏の伴奏が多く、そこでただ単純に繰り返すだけでは退屈だと感じる演奏家が増えてきたのでしょう。繰り返した二回目は装飾音の弾き方を変えて弾いたりしました。繰り返すことの楽しさに気がついたのです。演奏家にはある程度解釈の自由が与えられていたのです。
ある程度型式化されたものの、その伝統は古典派の時代にも受け継がれました。ハイドンやモーツァルトの器楽曲作品には、型式的な繰り返し記号が随所に見受けられます。
ここで私達が気をつけて楽譜を見なければならないことは、繰り返しとは単なる時間稼ぎではないということです。時間的な制約もあったりして私達はあまり深く考えずに繰り返しを省略したりします。
しかしバッハの作品など一回目と二回目に弾いた時とでは雰囲気がまったく異なっていることに気がついたことはありませんか?
二回目は同じことを弾いているのですが一回目にくらべて、音楽が熟成されていることに気がつくはずです。
アンサンブルでは皆の心が溶け合い、音も寄り集まってくるでしょう。
このことに気がつき生涯に沢山の“繰り返しの音楽”を作曲したのはモーツァルトです。彼はカノンという型式を駆使して沢山の声楽によるカノンを作曲しました。 最初はどこかぎこちない感じで曲は進みますが、四回五回と繰り返すうちに倍音が倍音を呼び、陶酔の世界というか凄いシンフォニックな世界が繰り広げられます。
“繰り返し美の極致”が垣間見られます。
曲の内容は宗教的なものから世俗的なものまで多種多様で、三声四声カノン、その他四声のカノンが三つのグループに分かれてカノンを繰り広げるという恐ろしく複雑なもので、モーツァルトの天才ぶりが直接身をもって実感できます。この曲はおそらく教会で演奏することを想定して書かれたのでしょう。
カノンで無限の時間を楽しむ。なんて素敵なことなのでしょう!
この時代は音楽だけでなく、ゆっくりと時間を楽しむ、時間の流れを楽しむということが芸術の主流だったのです。
現代人には考えらないことですが、最高の芸術に臨み挑んでいる時ぐらいは、省略などせずにもっと過ぎ行く時間を楽しみたいものですね。
つづく
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