其ノ一
母のこと

私も今年で満60歳、還暦を迎えます。
あっという間でした。この間、生まれたと思っていた私の息子も今年1月で35歳になり、年の経過という現実をいやがうえにもたたき付けられる今日このごろです。

還暦を迎え、第二の人生を歩むにあたって活動の源となるのはやはり健康、食事ということになってくるでしょう。
演奏家にとって食事は活動の原動力となるもので、決しておろそかにできるものではありません。日々節制、ある意味ではスポーツ選手の生活に共通する要素もあるのです。

今回私が今、健康をいかに考えているか、どんな食事をしているか、また過去の恥多き食生活などについてもお話ししてみたいと思います。

私が生まれたのは昭和31年、日本ももはや戦後ではないと言われ、希望にもあふれ、すでに豊かさを取り戻しつつあった時代でした。そんな時代、極一般的な家庭に生まれた私も、その当時としては恵まれた食生活を送っていたものと思います。思いますといいますのは、私が他の家庭を知らなかったからであり、子供であったため、他と比べる術がなかったためでもあります。

大正時代末期に生まれ戦中戦後の苦しい時代を生き抜いた私の母は極度の偏食です。
他の同年配の人をみてもここまで酷い偏食の人は見たことがありません。母の実家は九人の大家族で、小さな鉄工所を営んでおりました。
叔父達男兄弟四人と祖父で作業します。当時日本は戦後復興を遂げ高度成長の時期、それ相応に儲かっていたのでしょう。仕事は次から次に来ていたようです。早朝から夜遅くまで油まみれ。母も日中は鉄工所の手伝いをします。私も幼稚園が終われば鉄工所に行って母の用事が済むのを待つという生活を続けておりました。鉄工所での食事は作業をする男達が中心になってとるのですが、祖母は心を尽くし日々栄養たっぷりの食事を用意して働く男達を支えておりました。祖母が皆と食事をしているのは見たことがありません。台所に立ちっぱなし、家政婦のような存在でした。
肉体労働ですので食事は肉中心、とにかく肉、肉。今から考えても豪勢な食事でした。今から思えばカロリー過多で不健康そのものの食事。でも食に関しては金に糸目をつけなかったようです。
母はそういった食材豊富な環境で暮らしていたので、普通偏食になるとは考えられませんが なにかのトラウマでしょうか。家族経営ではそれぞれ我がままも出ますし、仕事からくるストレスもあるのでしょう、叔父たちは夕食の時には酒を飲み喧嘩をしたりするのです。その雰囲気も嫌だったのかも知れません。大酒飲みの祖父と叔父たちでした。今でも母は“酒飲みは嫌いや!”と言います。
母の場合、とにかく食わず嫌い、いや、食っても嫌いで、食べられるものが普通の人の四分の一もなかったように思います。
母は自身、子供の頃から偏食だったと言っておりますが。

そんな母は歌がとても好きでした。というか自分の子供に歌って聞かせるのが好きだっただけなのかも知れません。猫にも歌って聞かせます。歌う歌は主に童謡ですが、軍歌も好んで歌ってました。小さな子供に軍歌はどうかと思いますが、戦友、軍艦行進曲、婦人従軍歌等々。下手くそですがそんな歌を私はしきりにせがんでいたようです。軍歌の中ではメロディーがきれいな婦人従軍歌は私のお気に入りでした。私はそんな母に育てられました。

つづく