其ノ四
地獄の給食

私は大阪市の都島区で生まれました。場所は太閤園のど真ん前。家の前を市電が走り、近くには造幣局や藤田美術館などがある昔から開けた都会です。
五歳までそこで育ち、その後、母の実家がある鶴見区放出(ハナテン)に引っ越したのです。しかし私は生まれた土地、都島区の幼稚園と小学校に越境入学し、幼稚園の頃から一人で電車通学していました。その当時大阪市では越境入学が認められていたのです。
母校である都島区の市立桜ノ宮小学校は放出とは違い、家が商売をしているという家庭の子供が多く、したがって結構裕福な家の子供が多かったです。食べ物もいろいろ食べているはずなのにあの給食だけは馴染めないという人は多かった。逆に豊かな食生活をしているからこそ、学校ではあの酷い給食が食えなかったとも言えるかも知れません。

話は給食の時間に戻ります。
私にとってこの時間はまさに地獄の責め苦、最大の難関は何と言ってもあの不気味な白くて生暖かい液体、そう、あの悪名高き飲み物、脱脂粉乳です。それをいかに胃に流し込むか。これがまず最初の難題です。とにかく鼻をつまんで一気に流し込む。これしか方法がありません。お茶があれば後に残った味を洗い流せるのですが、そんなもの出ません。飲み物といえば、この脱脂粉乳しかないのです。なんと意地悪な、としかいいようがありません。
女子に多いのですが、この臭い粉乳とまずいおかずを食べていると、どうしても気分が悪くなる子がいるのです。どうしても堪えきれずにもどしてしまう。するとそれまで必死で我慢していた子も、その臭いと光景に誘発され次々と同じ羽目に!もう地獄絵図です。
後はもどしたものをクラスの者で手分けしてかたづけます。
今だとそんな給食に対して親からは苦情も出るでしょうが、当時の小学校教師は変に威厳がありとても強引でがらが悪く、偉そうに振る舞っているのが普通で、そんな苦情などあったとしても聞きもしません。聞く気持ちも皆目無し。給食だけでなく何でもかんでもただ一喝して終わらせておりました。 また体罰も日常茶飯事でした。

そんな担任にとっても給食はよほどまずかったのでしょう、しかし担任としての立場上率先して食べなければ面目が保たれません。例えばチーズなど、可愛そうにその担任にとってはよほど食べ慣れない食べ物だったのでしょう“これは慣れたら慣れるほど美味くなるんや”などと言い涙目になりながら強がって食べていたのを思い出します。
当時チーズなどまだ珍しい食べ物でクラスでは家で食べたことがあるという人はほとんどない状態でした。今から思えばあの頃出ていたチーズなど臭いばかりで、石鹸のような匂いがしていました。マーガリンなど油臭いだけの代物!
その頃の給食は今のように給食センターのような業者が学校に納入するのではなく、各学校には給食を作る部屋があってそこで給食のおばちゃんが作っていました。昼前になると従業員のおばちゃん達が大きな鍋とスコップを振り回して給食を作っていました。おばちゃんとも親しくなり“今日の給食美味しかったか?”とか“全部食べたか?”などと聞かれるのですが私は酷くまずかったことについて、気持ちをぐっと殺して、ただ“うん”と答えるだけでした。
毎日大量に出る残飯…、辛い戦時中を生き延びたであろうおばちゃん達はどんな思いでそれを見ていたでしょう?

つづく