◎ 今日は練習とは何かということについて考えてみます。
まず、物を見るとはどういうことでしょうか?
見るということも精神状態によって色々です。
物事を意識的にしっかり見ている時と、ただ単に漠然と見えている時とでは、自分の理解の度合の幅に大きな差が生まれることがあるということに気がつきます。
見るとは能動的に自分の意思で物を見ることであって、見えるとはあくまでも受動的に見ている、あるいは見せられているだけの状態のことです。見えている状態、すなわち自分の神経が物事に集中していない時など何を見せられても記憶が全く残っていないことなど良くあるものです。
はやくいえば、上の空という状態です。
これは聴覚他五感全般にも全く同じことが言えます。心配事があればどんな美味しい物を食べても美味しいとは感じません。
普段の生活においても、私達は起きている間も瞬きする以外は常に何かを見ているわけです。
しかし、ひとつの物事に対して自分の意識の焦点を当てない限りは何も見えてこないというか記憶には残りません。何も見えていなかったのと同じです。
もし、仮に見えた物にたいして感じた事全てがそのつど意識され記憶に残っていたとすれば、脳は直ちにオーバーヒートを起こし精神に異常をきたすでしょう。正常には生きてはいられません。
人は新しい物を取り入れつつ、同時に捨てているのです。人間の身体とはほんとに良く出来ていますね。
楽譜を見る時でも、書かれてある全ての音に意識を集中し、同時に精神も集中させて見ることができる、これが理想です。
しかし、これはあくまでも理想であって、全ての音全てに全神経を注いで見、意味を考えながら弾いていたら、音楽は全然前には進まないでしょう。即、停止します。
私達は普段全ての物事に対して自分の経験に基づく予測によって行動していることになります。
そこで音楽でも重要となるのは、外的刺激による経験の元に予測をたてながら弾くということだと思います。
全ての音を同等に意識して弾くなど、どんな綺麗事を言ってもこれに尽きるのです。人は経験の元に類型的に物事を見るのです。
経験に裏打ちされた無意識の内に事を運ぶ能力は絶対に必要なのです。わかりやすく言えば無意識に身体が反応することです。
そこで、いかに音楽を把握すれば良いのかということになりますが、そこで意味を持ちはじめるのは練習することの重要性ということになります。物事を類型的に見るという人の意識の特性上、以上練習することは必要なのです。
練習することとは身体に経験としての弾き方をデータとして取り込むことです。ですから無意識的に目の前に見えている音符も身体に蓄積された過去のデータを元にそれを駆使することによって演奏が成り立つのです。
しかし、音楽において全て予測が立つような作品では面白くありません。
予測や予想は裏切られることによって人は初めて驚きを感じ美を感じるものなのです。
その驚きの数が多ければ多いほど、演奏する人の芸術的高さや感動となって身体に蓄積されていくのではないでしょうか。
その驚きや感動を練習することによって何度でも味わいましょう。名曲は何度弾いてその感動を味わっても決して色あせることはなく飽きることもありません。
さて皆さんは練習することが好きですか?
天才的に上手な演奏家の中にも練習が嫌いな人もいますが、私はチェロを練習することが大好きです。個人練習であっても、室内楽など複数の人とやる場合でも同じく楽しいものです。
それは純粋にチェロを弾くことが好きだからでもあります。ああでもない、こうでもないと色々な可能性を考えながらチェロを練習するのは何と言ってもチェロを弾く醍醐味ではないでしょうか。
演奏会では味わえない楽しみでもあります。演奏会はある種の結果、つまり思いを積み重ねてきたことの抜け殻または残像のようなもの。本来、それにいたる過程が楽しいのであり重要でもあるのです。旅行も計画の段階が楽しいと言われますね。私にとって練習とはあれと同じです。
さあ、今日も頑張って練習しましょう!
終
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