Op.2ー1

今日は音楽のデユナーミク(単純な意味での音量)についてお話し致します。
楽譜にはp(ピアノ)とかf(フォルテ)など一般的に言うところの音量の指示が書かれているのをご存知だと思います。
それははたして本当に音量だけを指示しているのでしょうか?
まずピアノとかフォルテは人間が持つ耐えることが出来ない感情の発露、または作曲家が特別なニュアンスを伝える一つの手段として書かれた、と捉えるべきだと言いたいのです。
それが作曲家と演奏者の感情が一致することによって、その曲が産まれた意味が成立し、良い演奏となって結実するのです。

まずフォルテやピアノとは何でしょうか。イタリア語では単純に強いと弱いということです。しかし強い弱いだけでは音楽にはなりません。どのようなフォルテなのかピアノなのか、後期ロマン派の作曲家達は演奏方法を言葉で詳しくと書きました。例えば燃えるように激しく、とか冷たくなど。しかしそれでは演奏家のファンタジーを奪いかねません。演奏者を信用していないのです。この時代は作曲家と演奏家の立場は逆転しました。しかしいくら説明しても音楽において言葉というものには限界があります。楽譜はパッと見てインスピレーションが湧くべきものであるべきものです。その点、前期ロマン派までの音楽は作曲と演奏が絶妙なバランスを保っていた時代とも言えるのです。

次にフォルテやピアノをイメージの面から見てみましょう。
まずフォルテのイメージには活動的(大きな運動、動き)色で言うと濃淡がはっきりとした濃い色、豊かさ、偉大さ、包み込むような寛大さ、太陽の光、暖かさ、父性又は大きな父の愛、時には偉大な大自然の雄大さ、自然の怒りなどを表すことが多いですね。場合によれば研ぎ澄まされた神経質さもあるかも知れませんし早いというニュアンスもあります。
次にピアノではどうでしょうか。フォルテに比べると静止、静けさ、暖かさ、淡い色、冷たい月の光、優しさ、母性又は深い母親の愛、ピアノの場合にも凍りつくような冷たさ、冷徹さはフォルテと共通してあります。また遅いというニュアンスもあり挙げればきりがありません。
このようにフォルテやピアノは音のニュアンスやキャラクターとして捉えるべきで、あくまで音量は演奏者が音楽を感じた結果として、音が大きかったり小さかったりするべきです。

音を大きく、あるいは小さくなど、まず音量を決めてから音楽を作り上げるのでは筋道が違うのです。

何度も言いますが、“フォルテやピアノはキャラクターでありニュアンスであるです。”
世間には練習の効率を上げるためもあるのでしょうか、“そこはフォルテで!”とか“ピアノで!”などと連呼する指揮者が多いのには困ったものです。そのような指揮者に限って、ピアノが欲しい時に大声で“ピアノ!!”と叫ぶのです。
音楽が強い弱いだけなら機械がもっと正確にやります。どのような音が欲しいのか、なぜ音量が大きくなければならないのか小さくなければならないのか、楽員には理屈や態度で示さないといけません。伝わりにくい場合は歌って見せるのが一番です。

バッハなど多くのバロック時代の作品にはフォルテとかピアノがほとんどありません。速度すら表示はありません。そこで音量を決めて演奏している演奏者は大いに困るわけです。どんな強さで弾けばよいのか分からず、不安でしかたがない。指示がないものですから音楽が棒読みになってしまうのです。何も書いていないからすべて同じ音量でいいと言うことではありません。どの音にスポットライトを当てるか、どの音が影になるのかなど、演奏者にかなりの部分が任されているのです。つまり演奏者を信頼しているのです。作曲家の意図に応えるべく、我々は純粋に音を見て判断するべきで、それこそ経験とアイデアが必要となります。最終的には奏者の判断だけが頼りです。

もう一言付け加えるなら、フォルテやピアノを考える前に、まず音の立ち上がりや音の切れ際を考えるべきです。音量以前に音の立ち上がりによって雰囲気はがらっとかわります。人は音量よりも音の立ち上がりを聞いて、音質や感情のイメージを聞き分けている面もあるのです。
まずその場面に必要な音の立ち上がり方を考えてみるべきです。
音質=音の立ち上がり方。

つづく