◎ “大は小を兼ねる”という諺がありますが、これは大きいものは小さいものの役目もすることができる。それに対して小さいものは大きいものの代わりにはならない、という意味です。適材適所という意味にも解釈されることもあります。でも普通は、大きいことは良いことだ!何でもかんでも大きい方が良い。というふうに使われることが多いですね。ほんとにそれが正しいのでしょうか?

少なくとも音楽ではそうはまいりません。
大は小を兼ねないのが音楽です。反対に音楽において小は大の役目も果たします。

単純な例では楽器でもそうです。幼稚園児に、そのうち大きくなるのだから、といってフルサイズのチェロを与えることはできません。 それに対して子供のチェロを大人は弾くこともできるし弾けば楽しいものです。またそれが新たな発見をもたらしてくれることもあります。

演奏面においても、豪快なほど良いといっていつも髪を振り乱し、いつも馬鹿でかい音で乱暴に弾いていればよい、では音楽にならないのです。いざ静かな表現をしようと思ってもそんな感覚による弾き方では曲が求める静けさは決して表現できるものではありません。
そんな演奏が何と多いことでしょう!

私など芸術的音楽の表現の基本は“静寂さ”や“静けさ”ではないかと思うのです。表面的には静かに見えるものが実は精神的には凄く強烈な表現だったということなどいくらでもあります。“柔能(よ)く剛を制す”静かなるものは強い!
何らかの気分の変化で曲は瞬間的に盛り上がったりすることはありますが、それは一瞬の出来事。基本は静かなものだと思います。
理想的な人格として、温厚で物静かという人物が好まれるのに対して、いつもうるさく、がさつな人物との差にも例えることができます。

◎静かな音楽が一旦その気になると爆発的な音楽的うねりとなり、その効果は凄まじいものです。普段静かな海が一旦荒れ狂うと凄まじい。また普段温厚な人が怒れば凄く怖い。あれと似ています。
しかしほんとに荒れ狂う事など一瞬です。
やがて静寂へと収斂されていくのです。

◎ 普段荒れ狂っていると、それが普通になってしまいます。
普段、フォルテで弾き続けるとそれに人は慣れ刺激も感じなくなるもの。そんな中で突然静かになってもその静けさは埋もれてしまって、何の効果ももたらさなくなる。
反対に普段静かだと一旦動き出すとその効果は絶大です。その意味で“大は小を兼ねる”という理屈は成り立たなくなるのです。

◎ この世の基本的なモーションはどんなものでも“静”の世界に収束していくのです。動は静止に。生は死に。

例えばお寺の鐘はゴーンと鳴ります。音は余韻を残して消えていく。決してゴーッ、とはならないはずです。
同じように大きく振れた振り子はやがて静止し、漕いだぶらんこはやがて止まります。
宇宙はビッグバンで膨張しましたがやがては収縮する宿命にあります。全ては静止に。これが自然なのです。それが心地好いのです。
膨張した恒星もなにかのバランスの崩壊で大爆発を起こすのと同じように音楽も気分の変化で大きく盛り上がったりしますが、やがて静かに“納得して”終わるのが自然です。いつもがなりたてているような曲は駄作ですし、そんな演奏も良い演奏ではありません。
ですから音楽でも基本的に静寂の世界に動が突然変異的に発生するのだと思います。

静寂を知らないと動の意味は理解できないのです。
大ばかりでは小を知ることは不可能。影を知らなければ光の意味がわからないのと同じですね。
死ぬために人は生きるように、静止の世界、つまり人は最後の最後の休止符のために音楽をやっているようなものなのではないでしょうか。