◎8 続、フィナーレ
ヴァーグナーの時代になると管楽器もかなり改良が進み、細かい音形も演奏可能になってきたのです。
そこでヴァーグナーはベートーベンが生きていればこう書きたかったはずだと、細かい音を書き込んでいったのです。ベートーベンが欲したのは自分が理想とする音そのものであり、あくまでベートーベンの時代に存在した楽器の音と自分の理想の音とが合致したに過ぎないのです。もしヴァーグナーが書き足したような音が欲しいのであれば、もっと違う楽器にそれを求めたでしょう。やがてチェロとコントラバスの最後のレシタティーフが終わりますが、ここでとんでもない伝統的な意識的ミスというか楽譜の読み違いが起きます。この部分、実はフェルマータ(止まる)は無いのです。休止符すらありません。楽譜では直ぐにチェロとコントラバスで歓喜のテーマに入るのですが、私はまだ一度も楽譜通りの演奏に出くわしたことはありません。CDではクリストファー・ホグウッドがほぼ楽譜通りに演奏していますが、いかにも再現しました!という感じが見えなぜか不自然さを感じます。普通、ここで数秒の休みが置かれます。
なぜこのようなことが起きたのか、それは一旦休んで歓喜のテーマをとても厳かに始めたいため(楽譜には厳かになどとは書かれていません。ただとても快活かつ愉快にとしか書かれてはいないのです。)またはレシタティーフ直後のオーケストラティュッティの三拍目を強く弾き過ぎる結果(第1拍目にはフォルテはありますが三拍目にはありません)、一旦休みを置かないと次の歓喜のテーマに移行しずらいためと考えられます。
チェロとコントラバスで静かに歌われる歓喜のテーマはアレグロ アッサイ、とても快活に愉快にです。
一般的にかなり遅く、非常な緊迫感を持って厳粛な雰囲気で開始されるのが普通です。無表情に弾かれることも多いです。
徐々に速く。気がつけば速いテンポになっていた。この方法はカラヤンが得意としたもので、レコードで聞いてもあのテンポ運びは天才的といってもいいものです。しかし楽譜にないことをやるのはいかがなものか。私としてはいささか抵抗感を感じます。
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