「表現」する。

普段私達がなにげなく使っている言葉ですが、よく考えてみると何だか分かったような分からないような、何となく曖昧模糊とした言葉だと思いませんか?意味もわからず使っていることがほとんどです。
昔から私もこの言葉にはずっと悩まされていたのです。

表に現す、これはわかります。普通に考えられることは自分を表に出すことでしょう。自分をある程度表に出さないと、周りから警戒心を持たれますし、時には馬鹿だと思われてしまう。
これも納得できます。

問題は芸術に於ける表現とはどういうことか、ということです。芸術において表に出すとはどういうことか?表現するとはどういうことか?
何を表に出せば良いのか。

まず絵画や彫刻など美術の場合で考えてみますと。色や形が直接目を通して脳に働きかけます。見方は人それぞれ、どのように感じても良いのです。これは表現する方にとってはある意味、とても自由でやりやすい表現のしかたです。気は楽ですよね!悪く言えば独りよがりだとも言えます。

問題は音楽での表現です。
作曲の場合、作曲する方としてはある程度美術と似通った面もありますが、それでも美術とは確実に違うところがあります。それは必ず演奏を必要とするということです。楽譜を本のように読んで頭の中で想像するということもあるかも知れませんが一般的ではありません。演奏がなければ作品は無いのと同じです。「だれも見ない月は存在しない、」と言った物理学者の話を思い出させます。

美術に於ける制作者と観賞者に加えて音楽芸術では演奏という作品を成立させるための媒介が一つ必ず余分に入るのです。ここが美術とは違う最大の点です。言い換えれば、人との繋がりを必要とする、とても社会性のある芸術だとも言えるでしょう。
音楽は、作品(楽譜)だけでも成り立ちません。もちろん演奏だけということも、ありえないということです。

音楽作品(作品プラス演奏)が芸術として成立するために大切なのは作品と演奏との最適なバランスではないでしょうか。「演奏」には芸術としてまず表現された作品(楽譜)を実際の音として再現するという役割があります。しかし九割方、作品の再現のみに重点を置かれた演奏、または楽譜を直接音に置き換えただけの演奏、たとえば昨今目につく古楽ブームに代表されるような、再現にばかりに重点を置かれた無味乾燥な演奏に多く見られます。つまりバランスが作品の存在に傾いた演奏です。もう一方は、九割、演奏に重点を置かれた演奏。これは世間で、残念ながら一般的によく見かけられる作品の本質を無視した演奏者本位の演奏です。特に演奏者や出版社による楽譜への勝手な改竄(罪悪感なしに無意識的に行われているところが恐ろしいことです)、これなどそれを代表しています。
これらどちらも良くないのは自明ではないでしょうか。
しかし私には最近、どうもバランスが演奏の方に偏った演奏が増えているように思えるのです。
巷のレッスンにおいても生徒に自分が作曲したようなつもりで弾きなさい、と教える教師がなんと多いことか。とんでもないことです!
このような場合、果たして
一つの作品を表現したと言えるのでしょうか?
私にはそうは思えないのです。ただ単に個人的なパフォーマンスに、または個人的な趣味に作品の方を無理やり変形させこじつける、すなわち一つの作品を利用したに過ぎないのでは?

もし本当に自分を表現したいのであれば自作自演することをお勧めします。これならだれにも文句を言われることがない。自己を思う存分「表現」したいのならこれしかありません。
人の作品を演奏するのであれば、少なくともこれは他人の作品なのだという意識を持ち続けていく必要があります。そうすれば必ず作品と演奏とのバランス、すなわち表現の現場はもっと良好なものとなるでしょう。

さて、次に総合芸術であるオペラ映画や演劇の場合で考えてみましょう。
これは表現の意味で考えるともっと複雑になってきます。
まず、原作者、脚本家、監督、ライティング、衣装、音楽、演者等など数え切れません。
それぞれに重要な役割があります。この場合もそれぞれのポジションが生かされバランスがとれている作品は素晴らしいもの、と言いたいところですが、バランスの絶妙なズレは面白さに繋がることもあるので、バランスの良さだけが最高だとは一概に言えない世界でもあると私は思います。