◎第三話
鶴の巣篭もり

今日は私が福岡にいたころ初めてドイツ語を習った先生のことについて少しお話しさせていただきます。

先生のお名前はミヒァエル ィエッケル先生。九州大学の講師に就任するために来日されました。九大外国人職員宿舎が我が家の近所にあったものですから、私は留学に備えて独語を習いに行っていたのです。
先生は三年程で帰国されたのですが、その後私がスイスに留学した時にドイツまでお会いするため先生のお宅を何度か訪問させていただいたことがあります。
アルスバッハ(ハイデルベルクに比較的近い)という小さな町にある先生のご自宅は日本様式で統一されておりました。玄関では靴を脱いで上がり、部屋は畳敷、先生は大の日本通なのです。
先生のご趣味は尺八演奏です。趣味とは言え腕前はプロ級。ドイツのあちこちで演奏されています。日本音楽には精通しておられ、私など楽譜の読み方を教えていただいたこともあります。
演奏を聞かせていただいたこともあります。“鶴の巣篭もり”(尺八の独奏の名曲としてだけでなく人類が生んだ最高の傑作のひとつとも言われ、知的生命探査機ボイジャーに録音が搭載されました)という曲を聞かせていただいたことがありますが 本当に見事な演奏でした。

が、しかし…、どこかが違うのです。

何が違うのか?
考えても納得できる答が見つかりません。

ある時、先生の演奏を思い出していると、はっと気がつくことがありました。

そうです、言葉で表現するのは難しいのですが、先生の演奏からは“ドイツ語”が聞こえてくるのです。
発音そのものがドイツ語なのです。
この“鶴の巣篭もり”という曲は、鶴が巣に篭り雛を育てやがて親鳥は死んでいくという情景を表現し仏教的な思想に縁取られれていますが、先生の演奏からは日本のみずみずしい自然ではなく南ドイツの雪原が見えてくるのです。
この事実に気がついた私のショックを想像していただけるでしょうか?
反対の立場で考えると、今私が必死でやっている西洋音楽は単なる猿まねに過ぎないのではないのか?
文化の違いだとかそんな単純なものではなく、流れる血の違いを感じたのです。日本人が西洋音楽をやる意味は何か?当時は本気で悩みました。
上手下手の問題ではありません。
根源に迫る問題だからです。

同じようなことをチェロのヨーヨー・マの演奏を聞いても感じるのです。彼はアメリカ生まれのアメリカ人ということですが、その演奏には遥か遠くで二胡や馬頭琴の音が響いているのです。

では、ドイツ音楽はドイツ人が、フランス音楽はフランス人が弾くのが何でも最高なのか?
日本人やその他アジア人が弾く西洋音楽は二流なのか、ということになってしまいます。
次にそのことに触れてみましょう。

続く