◎第二話
関西弁の演奏
演奏する人の個性を演奏にだぶらせて聞いてみると、関西人が奏でる音楽はどちらかと言えばやはり関西訛りなのです。全般的に“ねちっこく”間が抜けている、フレーズの最後が強すぎる、などよく取り沙汰されます。ある指揮者はオーケストラの楽員に向かって、演奏が大阪弁になってはいけないと豪語しましたが(少しムカつきます)、ある意味これは正直な意見なのです。これは初心者からベテランまで共通した傾向なのだから。
声楽家でも同じです。標準的な日本語の歌であれ外国語の歌であっても何処か関西弁を匂わせます。関西人が上手に英語を話してもどこか微かに関西訛りを感じるのと同じです。(因みに私が習った中学の英語の先生の話す英語は完全な大阪弁でした。)
共通して言えることは我々関西人は楽器を演奏しても、知らず知らずのうちに語尾が強調される傾向があるのです。
演奏には自分の喋り方が強く影響しますが、これはどの方言に対しても同じことが当てはまります。ただ関西弁はそのイントネーションの独特さ故にそれらの傾向が目立つのでしょう。
しかし私達が演奏する作品はほぼ全て西洋の音楽です。(ここでの西洋音楽とはヨーロッパ、ヨーロッパ圏ロシア及びアメリカの音楽を指します)。言語はコミュニケーション手段なのである程度訛っていても許される面はあるでしょう。でも演奏する西洋音楽が関西訛りでは困るのです。
西洋の言語と日本語とは相容れないものがあります。言葉と音楽、音楽表現と言語表現はかなりな部分が共通しています。言葉が音楽を生むとも言えます。
意識している、していないにかかわらず、日本人の演奏はよく四畳半の音楽と言われ、狭苦しくどこか借り物というか西洋音楽が自分のものになり切っていない不自然さがあります。私がこれが日本人が西洋音楽をやることに対する最大の問題のひとつでもあり解決する課題でもあると思うのです。理屈では解決できない問題とも思います。しかしそこは自分自身で解決していかねばならない問題でもあるのです。若いころ、私もこのことについては悩みました。
続く
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