Op.2-7
休止符 フェルマータ

今日のテーマはパウゼ“休み”についてです。
休み、といっても問題は山ほどあります。
私達は音楽を演奏する上では、休止符とは《無》。音が存在しないい状態と捉らえがちです。はたしてそれが本当に正しいのでしょうか?
音楽は宇宙の縮図とも考えられます。つまりミクロコスモスなのです。
宇宙物理学では近年、何もないと思われていた空間も実は未知の物質で満たされていたことが分かってきました。同じように音楽においても、何も無いはずの休止符、実は感情の海であり、宇宙の素晴らしさで満たされているのです。
文学作品を読む時でも行間を読めてこそ初めてその作品を味わうことができるわけです。すぐれた俳句などほとんど何も書かれていないのと同然ですね。音楽もまったく同じで、休止符には響はもちろん、感情や意識で満たされていなければなりません。休止符をいかに取るかで次に出てくる音楽にも影響を与えてしまうのです。休止符の取り方次第で演奏全体の成功、不成功が決まるといっても過言ではありません。合奏の場合も楽器は他の楽器と共鳴しているので、演奏者も自分の出番が終わったといって、ただボーッと休んで待っているだけでは音楽にはならないのです。
たとえ自分の楽器は休止符で鳴っていなくても、全体の和音を自分の楽器で擬えたり、心の中で口ずさむくらいの心意気は欲しいものですね。合奏をする場合、曲の途中や終わりに自分のパートが休止符で途切れる時など、終わった、という安堵感からくるのか、終わったとばかりすぐに楽器を構えることを止め楽器を置いてしまう人は多いですね。アマチュアによく見られます。プロでもたまに見かけます。先程も言ったように休止符はお休みではありません。れっきとした音符です。弾いている時、いくら指が速く回り上手くても休止符の意味を理解し正しくとれなければ、その演奏は残念ながら失敗なのです。
休止符をいかに感ずるか。なかなか難しい問題ではあります。これが音楽的に感じることが出来たら一ランク上の次元で音楽を楽しむことが出来ること間違いありません。
最高のオペラを見るのはとても良い勉強になります(私の場合はもっぱらDVDでですが)。オペラ歌手は自分が休止符の時にも演技していなければなりません。休止符がいかに生かされていたかでその演奏は決まってしまいます。上手い歌手は例えそれが少しの休止符でも、緊張感が途切れることなくしっかり音楽を感じているのです。また歌い出すまえにもすでにその役に成り切っているものです。俳優も同じ。突然演技などできません。演奏家もそんな心意気が欲しいものです。

こんな場合もあります。フレーズの頭または最後の音で全ての音が終わったとしても4小節のフレーズの曲の場合、何も書いていない小節が必ず後3小節書かれているはずです。この場合も曲が終わったといって全員が楽器を置いてしまえば音楽はぶち壊し、それまでの苦労は水の泡となります。
聴衆の方もこんなところで拍手するなど言語道断ですね。心ある聴衆は、こんなところでは拍手などしません。
次に休止符とは似ているのですがまったくニュアンスが異なる“フェルマータ”について少しお話しいたします。
元々この言葉は止まる、あるいは停留所という意味です。長さには関係ありません。
記号としては目の形を意味し、注意を促す記号なのです。
時々音を伸ばし、ご丁寧にも体でしっかり数を数えている人を見かけます。演奏方法としては、一旦完全に止まってしまい、次の音のきっかけを掴むため改めてブレスを取り直します。
曲の最後の複縦線にフェルマータがある場合があります。これは一般的的には曲の終わりを示すものとされますが、雰囲気として曲が終わった余韻を楽しむ、つまり今終わった演奏の思い出を楽しむ、と捉らえたほうが人生幸せになりますよね。もっと余韻を楽しみましょう!見えているものだけがすべてではありません。
休止符の向こうに素晴らしい芸術が隠されているかもしれませんよ。

カプリッチョ Op.2 完