◎ 続き

 スラーなどのアーティキュレーションの面で見ていくとバロックの時代、隣り合う音は繋ぎ、音が跳躍する時ははっきり切って弾く。これは暗黙の了解のような習慣でした(それが音楽も良く響き、流れ的にも極自然に聞こえます)。その他のアーティキュレーションの解釈は演奏者に任されていた部分が多かったのです。
ですから現代の私達も、楽譜にスラーが書かれていない、またはフォルテやピアノがないといってなにも無しで弾けば良いというものではなく、それを補って演奏するのが本来の演奏の在り方なのです。

そうしたなか、すべてのアーティキュレーションを演奏者の勝手で弾いては欲しくないと、自分の作品にすべて自分が望むトリルを含むアーティキュレーションを丁寧に書き込んだのがJ・S・バッハだったのです。
演奏者の自由にはさせてくれないのですから、当時バッハの評判は悪かったといわれます。しかし今の私達はバッハの楽譜を見ることで当時の演奏習慣を垣間見ることができるのです。(ただし、良心的な原典版、できればオリジナルを見ることが最低条件ですが)

演奏における暗黙の了解のような習慣はハイドンやモーツァルトの時代にも受け継がれました。

例えばモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムズィーク第1楽章の出だしにはオリジナル(自筆譜)ではフォルテはありません

そもそもこの時代のフォルテやピアノはロマン派以降の音楽のような単なる音の大小だけではなく、もっとニュアンスに由来するものでしたので音の大小を数字で表されるような次元のものでは決してありません。
フォルテがないといってもただ強く乱暴に弾いたり、反対に微妙な音にこだわって小さく弾けば良いというものではなく、自分にとって最も素直に良く響く音で、と捉えた方が良いでしょう。この部分はつまり、モーツァルトがべつにフォルテなど書かなくても分かると思って書かなかっただけのことです。

現代私達が演奏する時も以上のような時代背景による演奏習慣を想像しながら演奏するべきではないでしょうか。
ただ単に楽譜通りに弾いたとしてもオリジナルの再現にはならないのです。
いろいろなことを察しながら演奏すれば、作曲者も気づかなかったものが見えてくる可能性もあります。
ですから現代を生きる私達も昔の人はできたであろう言わないでも分かることを、察しながら演奏できる能力は常日頃から養っていたいと思います。特に私達日本人は人の心を察するのが得意な民族なのですから。