◎ 音楽作品を歴史的に見れば 色々な表題つまりタイトルが付けられている曲がほんとに多いものだと感心させられます。
オペラなど歌詞を伴う声楽作品には題名が不可欠ですが(ベートーベンの第九や合唱幻想曲などは例外)、それほど題名が必要とは思われない器楽作品にまで色々と表題は付けられています。
表題の付け方には大きく分けて二通りの付け方があるでしょう。
ひとつ目は例えば、ベートーベンの“英雄”運命”田園”月光、などの全体の雰囲気を示す表題を持つもの。モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムズィーク、シューベルトの“未完成”や“ザ・グレート”など曲の形態を示すニックネーム的なものもこの部類に入ります。作曲家が付けたものだけではなく“運命”や“月光”のように後世の人が付けた名前を含めると数えればきりがありませんね。

もうひとつは描写音楽と呼ばれるものです。“展覧会の絵”や“動物の謝肉祭”“ピーターと狼”などがこの部類に入ります。それぞれ表題に加えて音楽の流れに沿ってストーリーが付けられています。ヴィバルディの“四季”も各部分に明確なソネット(13世紀イタリアに始まった14行からなる定形叙事詞)が付けられているのでこれも描写音楽の一種と考えられるでしょう。
他に少数の例とすれば、捧げられた人の名前が付けられた物、例えば“大公、ラズモフスキー、プロシア王”など。これらは大抵ニックネームとして後世の人が付けた名前です。

このように音楽作品には表題としてその作品の雰囲気を指し示している曲がたくさん存在します。

しかし、表題は演奏者や聴く方にとっては便利な面もある半面、捉え方を誤れば弊害をもたらすこともあります。
私達としては今から弾こうとしている曲に表題が付いていると、どうしてもその表題通りの表現をしなければならないと考え、その表題を過剰に意識してしまうものです。
そこで、余りにも表題やストーリーを意識し、表題の意味を全面に出し過ぎるために作品の持つ純度や芸術性が無視され忘れ去られてしまった作品は結構多いと思います。

例えばベートーベンの“運命交響曲”など代表格でしょう。そもそもこの曲など元来、表題など付けられてはいません。尚、今現在“運命”と呼んでいるのは日本人だけです。
この“運命”という表題によってこの作品は日本では誤った先入観として大きな誤解を受けてしまったのです。ダメージとしか言いようがありません。日本の聴衆がこの作品に求めるのは大抵、運命との格闘であったり、悲劇的な運命との格闘の果てに歓喜を勝ち取るといった押し付けがましい安っぽさに満ちたストーリーでしかありません。誤解された薄っぺらな激しさばかりが全面に出るのです。演奏する方も先入観に頼って演奏している面もあると言っても過言ではありません。
日本のオーケストラでは運命という表題のお陰でこの曲ばかり弾かされることが多く、数が多くなれば質は低下するもの。結果として投げやりな演奏ばかりが氾濫し、手垢に汚れきった曲に成り下がってしまいました。その先入観によって、この曲が得たものは、ジャジャジャーン!あの安っぽいイメージが定着しただけ。
この作品が本来持つ作曲技法的な素晴らしさはもちろん芸術的な偉大さまでもジャジャジャーン!の一声で吹っ飛んでしまいました。表題と間違った先入観とが完璧に結び付いた最悪の例です。

そこで私達演奏する側としては余りタイトルを意識し過ぎることなく、もっと純粋に音符が持つ意味を考えて曲に挑むべきではないでしょうか。それは描写音楽に対しても全く同じことが言えるでしょう。

また先入観という観点から見ると、表題は持たずとも先入観で弾かれているかわいそうな曲も沢山あります。
例えばチャイコフスキーの音楽。これなど不出来な演奏家の欲望のはけ口に成り下がってしまったという感が甚だしいですね。大きな音を出し髪を振り乱して弾いて終りという演奏が多過ぎます。

これらいつも問題となるのは“先入観”です。音楽は先入観の餌食になってしまったのです。
どんな曲に対しても先入観なく純粋な気持ちで楽譜を眺め作品に相対したいものです。
反対に何も表題のない作品に対しても自分なりの流れというかストーリーや曲に対するイメージを持って演奏することはとても大切なことです。ただ、がむしゃらに楽器を掻き鳴らすだけでは音楽にならない場合などたくさんあります。どんな場合も計画性を持つことは演奏する者にとっては大切なことではないでしょうか。