◎でも、こんなことってありませんか?例えば普段私達が不安や恐怖を感じながら生活しておりますと、その裏には必ず興味を感じている自分を発見するものです。
つまり恐怖と興味は表裏一体だということ。怖いもの見たさ、とでもいいましょうか。

その面から死を考えてみますと、恐ろしいことに仄かな期待や興味すら感じる自分がいることに気がつくのです。これはある意味ショックです。これは幸いにも本能で死ぬことを引き止めているのでしょうね。チャップリンの「サーカス」という映画を見て、そこには顔を引き攣らせながら命綱無しに綱渡りをする彼の演技を見てふと思ったのです。死の恐怖と美は隣り合わせではないかと。チャップリンはそれをきっと知っていたのでしょう。このような極限への興味が芸術家の心を揺さぶり芸術を奥深いものにしてきたのは間違いありません。
物事には必ず二面性があります。
変な例えですが、親しい人が亡くなり、その現場に立ち会い衝撃を受けたとしても確実にお腹は減り、心の片隅に今夜は何を食べようか考えている自分を発見する。この二面性に気がつくとき本当の生と死の意味が理解できるのでは? 

◎私が子供の頃は他人の死に対してあまり実感が持てなかったのですが、自分の死とはただただ怖いだけの存在でしかありませんでした。夜眠るのも怖かったくらいでした。
このまま目覚めないのではないかと。自分が無くなってしまうというという恐れがあったからです。
わからないものへの根源的な恐怖です。
それはまだ本能が支配している時期だったからなのでしょう。
しかし、歳をとると同時に自我に目覚めた結果どうなったでしょう? そんな感覚にはある程度慣れてしまったのではないでしょうか。というか、無理矢理理屈付けをしているようになるのかも知れません。
又は現実の生活に振り回され、とりあえず、死については一度棚上げしてしまっているのではないでしょうか。つまり考えないようにしている。しかし、還暦も過ぎ、人生の秋真っ只中という私のような年齢、棚上げしていて忘れていたものがむくむくと顔をもたげてくるのです。これはこの年齢の者すべてが感じることだと思うのです。人生も冬を迎える頃にはさらに死は現実のものとなるはず。
そんな時、心の平安へと導くのはなんでしょうか。それを発見する旅がこれから始まろうとしているのです。

◎コインには裏と表があるように生は常に死と隣り合わせにあると思って生きるべきだと思います。(実際、霊界は遥か彼方にあるのではなく、常に自分を含むすぐ傍に存在すると聞き及びます。)
暗闇を知らなければ光は理解できないように、死を考えることなく充実した人生を過ごすことなど不可能ではないでしょうか。
実際、震災、火災、殺人、交通事故などで自分や周りの人間がいつ死と遭遇するかわからない昨今、死及び生きるということを常に考えておくことも大切なのではないかと思います。