先月にもお知らせしましたが、来る2月9日、ソプラノ歌手藤野カヨさんのリサイタルにて、私はベートーベンのチェロソナタ第3番イ長調を演奏させていただきます。
1月の7日に第一回目の合わせ練習をさせていただきましたが、ピアニストの方もしっかり練習した結果を聴かせていただき、本番が楽しみです。
 
ベートーベンの音楽はバッハの音楽と共に、演奏する者を高みへ高みへと導いてくれます。
言い換えれば、演奏する度に作品は手の届かないところに逃げてしまう、とでも言えましょうか。
 
私自身昔から、ことある毎にこの曲を弾いてきました。
 
留学時のテープ審査でも弾きましたし、大阪でやった最初のリサイタルでもこの曲を演奏しました。
 
演奏する度に新たな問題にぶち当たります。
 
今回の演奏では以前から不思議に思っていた、第二楽章の音楽を見直してみたいと思います。
 
この楽章は形式としてはAーBーAーBーA コーダという単純な形になっています。
 
出だしAのテーマは突然空気を切り裂くようにピアノによって弾き出されます。
第3拍目から右手で始まり、遅れて左手が次の第1拍目。
これが繰り返されます。なんとなくびっこを引いたようなこのテーマ、昔からとても不思議だと思っていました。
 
一般的な演奏では、どこか叩きつけるような雰囲気で弾かれます。
 
しかし、良く楽譜を見てください。(譜例参照)
ピアノ右手のパートには4・ 3 4・3とタイで結ばれた音を指を替えながら弾くように指定してあります。これはベートーベンが指定した運指方で、このテーマが出てくる度、執拗に書き込まれています。
 
いったい、これをどうやって弾けば良いのでしょうか?
 
少なくとも、叩きつけるようなタッチではないのは確かでしょう。デリケートな4・3という指順。
叩きつけるような音色を欲するなら3・2、または2指のみとなるはず。
 
しかし、もっとも大切な問題は、どうして指を変えるよう指示しているのかということです。
タイで繋がれた音を指を変えて弾いても意味がない、あるいは変化がないのでは?と普通は思うでしょう。実際タイを切って二つの音を弾き直しながら弾いている演奏も聴いたことがあります。
または、クラヴィコードの奏法の名残だと指摘する人もいます。実際にベートーベンはクラヴィコードを生涯愛し続けました。その影響はあるかもしれません。確かにクラヴィコードでは音を切らずに音色を変えることは可能です。しかし、この曲が作曲された時代はピアノも改良されかなり現代のピアノに近いものとなっていたことを考えると、たんなるクラヴィコードの模倣ではないと思います。
 
この指の変換は出だしの音の立ち上がりの音色を導きだすものであることは間違いないと私は考えます。
 
では、この部分どんな表現になるでしょうか?
 
先にも申し上げたように、デリケートな4の指で始まります。さらに3指へとシフトするわけですから、音の立ち上がりは微妙な響きになることは当然です。単純なブレスにはならないでしょう!楽譜はフォルティシモですが無意味に叩きつけるような音には絶対にならないはずです。そもそもフォルティシモという意味はただ単に大きな音でがなりたてるだけではなくいろんな意味があると考えられます。たとえば、ほとばしる激情であったり、大きな愛情であったり、、、あるいは怒りであったり、、、
とにかく何かを語りかけているように思えてしかたがありません。ベートーベンはそのような音を奏者から強引に導きださせようとしているのです。
 
曲はピアノが出た後、すぐにチェロが同じメロディーを引き継ぎます。
 
この時のチェロのパートにはスラーの途中で指を変えたり弓を弾き直したりする指定は一切ありません。
 
しかしチェロもピアノと同じ精神で弾くべきだと思います。実際指を変えてみるのも方法のひとつとして考えられます。
実際、バッハの弦楽器パートには同じ音をスラーで繋ぐ書法は随所で見られます。
 
さらにもう一ヶ所問題部分があります。Bの部分を見てみますと、チェロにラシラシ、、、と長々と繰り返す部分がありますが、一般的には長いスラーをかけて弾きます。しかし原典の楽譜には途中からスラーは途切れているのです。楽譜通りスラーを切って弾くとどんな効果が得られるでしょうか?
 
よくCDなどで耳にするようなスマートな響きではなく、もっと原始的で地響きがするような荒々しい音楽になるのです。
このような響きをベートーベンは目指したのではないでしょうか?
 
以上のようなことを考えると、とても一般的な弾き飛ばすような早いテンポでは演奏不可能となってきます。
第一、この曲はモルト・アレグロ(とても快活に)でありプレスティッシモではないのですから。
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