其ノ三
才能と能力

能力=才能?
よく一般的に才能と能力という言葉は混同されて使われることが多いですね。
ここであらためて確認してみましょう。

辞書を見てみますと才能とは、訓練によって得られた能力、または個人の一定の素質。能力とは、物事を成し得る力、ある事について必要とされる力、適当とされる、または適当とされている資格。と書かれています。まあいずれも分かったような分からないような、とにかく曖昧な言葉です。はたして同じ意味なのでしょうか。
私は似て否なるものと考えます。
才能も能力もどちらも行動次第によって、有る無しは分かるでしょう。
私は訓練で得られるものが能力であり、持って生まれた“考え癖”、すなわち精神的な素質が才能である、と思うのですが、いかがでしょうか?スポーツにおいての華々しい記録樹立など、訓練のみで成し遂げられるでしょうか?
厳しい練習やプレッシャー、ストレス、こういった試練を堪えることが出来る者だけが成し遂げられるのだと思いますが、そこにはそれらが堪えられるという気持ちの持ち方、堪えられるという考え癖という、ある意味での才能が必要となってきます。それに加えて研ぎ澄まされたセンスが必要です。センスなど訓練だけではどうしようもない問題でしょう。
因みに、あの人はセンスが良いとか悪いとかよく言いますが、センスの良し悪しとは奥が深く、潜在的な一種の考え癖の差のことです。人の生き方のエッセンスとなるものです。
例えば我が子を将来有名なサッカー選手にしようと思って有名選手の指導を受けさせたり、一流の音楽家にしようと思って、有名な演奏家のレッスンを毎週高いレッスン代を払って受けさせても、伸びない子は伸びないし、巷の平凡な指導者や教師からでもいろいろな事を吸収して、思考を発展させ才能を伸ばす人は必ずいるのです。
有名になるためには運を味方につけたり、自分を売り込むというまた違った意味での“才能”も必要となってくるでしょう。
普通一流になるということは有名になることと同義語的に認識されていると思います。今回、純粋に物事を成就させるための才能だけについて考えるため、有名になるか無名かの問題は考えないことにします。

◎ 私が思うのは、訓練によって身につける物ではなく、本来持っていたものであり、それが最高の条件で開花したものが才能である、と言えると思います。その人が持つダイヤモンドの原石をを研磨するのです。もちろんその原石には良質で大きなダイヤモンドが隠されているとは限りません。小さい物しか見つからなくてもダイヤはダイヤなのですから。それを最高に引き立つ場面で使用しなければなりません。人には適材適所ということが必ずあるのです。
それを発見し発展させるのが教師の役割ではないでしょうか。

反面、能力は訓練次第によって誰でもある程度身につけることが出来る力、訓練に対応できる力であるということをはっきりさせておきたいと思います。

つづく