◎ 演奏する意味っていったい何なのでしょう?
現在、プロ、アマチュアを問わず音楽をやっている人達をみていると、聴かせることばかりに気を取られ躍起となっていることが多いように思います。いかに演奏効果を上げるか、いかにすれば人より目立つことができるか、又は何よりも自分さえ楽しければそれで良し。私には彼らの興味の的がそれらの一点だけに集約されているかのように見えるのです。
いつも自己主張ばかりで“俺が、私が”としゃしゃり出ることしか考えない。
世のクラシック界はエンターテイメント花盛り。華やかでカッコイイものだけが持て囃される。本当の芸術作品の“心”など置き去りにされているような気さえします。そこで最大の犠牲となったのは芸術作品そのものです。
演奏というものは芸術的作品そのものをショウ(コンサート)のパフォーマンスに使うものですから、芸術がどうだとかこうだとか、いちいちそんな面倒くさいことなど言ってられないことが多く、全てが均等、何をやっても同じような当たり障りのない小綺麗な演奏、あるいは聴衆を力で捩じ伏せる単なる暴力的な演奏が巷には溢れています。芸術作品は独り歩きしだし、単なる自己主張、自己満足の道具に成り下がり、作品自体も演奏者の都合に合わせるものですから、醜く変形されてしまいました。
演奏者は何も知らない聴衆に、それが作品の本当の姿だと思わせる犯罪を犯していることすら気がついていないこともあります。
聴かされる方はベートーベンを聴いたのではなく“誰其、某お嬢様”の“良い趣味”を聴かされているに過ぎないのです。場合によれば金儲けの餌食になっていることも…。残念ながらそんな演奏が現代の主流になっているのです。
まずそれらのことをわきまえた上でCDを買ったり演奏会に出かけてくださいね!
そうは言うものの、音楽には聴かせるという大切な要素もあるのは確かです。
演奏家にとって大切なのはその演奏をいかに聴き手の耳に渡し、耳に受け取った側は作品の力によっていかに高められ、その曲をひとつの芸術作品としての目的を完遂できるかだと思います。
聴き方ひとつによって作品の目的を達成させることも破壊することもできるのです。
間違った聴き方で駄作の烙印を押された優れた作品などいっぱいあります。
まず無内容でただ耳ざわりが良いだけの演奏と芸術性が高い演奏とを聴く方も区別して聴くべきでしょう。
聴く方も根性と本物を見極める責任が要るのです。
芸術性が高い作品を安っぽいまやかしの娯楽として演奏されている場合は椅子を蹴って即その場を立ち去るほどの判断力や勇気は持ちたいものですね。
聴かないという態度も絶対必要なのです。
言わば暴走族対策と同じ。すなわち「暴走を見に行かない!」ということになるでしょう。
◎ 人間社会にとって害となる習慣を蔓延させないために、演奏者自身も悪いパフォーマンスには加担しない、不用な演奏はしない。自らも弾かないという勇気は必要です。なんでもかんでも弾けば良いというものではありません。演奏家としてのプライドは必要です。
◎ では、演奏する場合においていちばん大切なこととは、作曲者の“祈り”が感じられるかどうかです。優れた芸術作品には、自分の心が演奏者を通して聴き手に伝わるようにという祈りが必ずあります。ベートーベンが“ミサ・ソレムニス”の冒頭で祈りを込めて書いた、“心から出、また心に帰らんことを!の言葉をもう一度思い出すべきです。祈りが無いものはいわゆる駄作。それを見極める能力は最低持ちたいものです。
祈りとは、相手のことを理解し受け入れようと努力することでもあると思います。
この“祈り”こそ音楽をやる最大の意味ではないでしょうか。
祈りがひとつの作品を成立させる最大のきっかけであり原動力でもあるのです。
これはなにも音楽だけに限られたことではありません。演劇でも映画でも、食べ物を提供する飲食業、またそれを支える生産者等など、人間の生きる意味そのものです。
演奏するためにはあらゆる可能性を試み、聴く人に作者の祈りが聴衆へと伝わることを祈らなければなりません。また聴く方が抱いた祈りの心は演奏者や作者の心へと帰っていくのです。
すなわち作曲者→演奏者→聞き手→作曲者、この祈りの循環が大切なのです。これで作品の使命は完結します。この環を断ち切ってはなりません。
少なくともその環には、“聴け”だとか“聴かせてやろう”といった邪念など入る余地はないと思います。またそのような気持ちが入った途端、作品は崩壊するでしょう。
人心荒む昨今、聞かされるのは悪いニュースばかり。“祈り”の意味をもう一度考えてみたいものです。
終わり
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