実践編 5
《命綱》

普通、あがってどうしようもないという当事者の心の中にも微かな冷静さは残されているものです。さもないとその人は失神してしまいますから(過去に実際に失神した人もいたそうですが)。そこで最後に残された冷静な自分の心に登場願いましょう!
そんな時、この方法はミラクルパワーを発揮します。私がお勧めする方法はもっと音楽的であり、かつ単純です。
《それはただ音名を心のなかで歌いながら弾いていくという非常にシンプルなものです》。これだけのことですが絶大な効果が期待できます。心の中で音楽にとって大事な音名を歌うのですから利にもかなっています。自然に音楽に集中できます。音名を歌うことに気持ちを集中させることによって強い緊張を忘れさせるのです。言いかえれば、心の中で階名(音名)を歌うことで心に《命綱を張る》のです。心に響く音に階名で目印を付けていきます。これが命綱になるのです。高所作業を思い浮かべるとわかるように、命綱がなければ怖くて手足ががたがたと震えるでしょう。それこそ気を失うかも知れません。でも命綱があれば安心感で手足が震えたとしても何とか動かすことができるでしょう?極度の高所恐怖症の人と酷いあがり症の人とは精神的によく似ています。どちらも理由の分からない恐怖感に悩んでいるのです。
この方法は自分はあがらない、という人も是非やってみてください。意外と難しいです。集中しないとできないはずです。
でも単にメロディーを歌うだけでは効果はあまりありません。あくまでも音名を思い浮かべることに意味があるのです。心で漠然と歌うよりもメロディーが急に現実感をもって感じられるようになるでしょう。
普段の練習にもこの方法を取り入れると音楽がとても覚えやすくなり、指と音が一致してくるるので暗譜するときにもとても効果があります。この方法は言いかえると、自分が歌えることは必ず演奏できる。歌えないものは絶対に弾けないということを証明するものです。ですから難しいパッセージなど、弾けない時はまず歌ってみるのです。跳躍した音形でも音名を歌うだけならそんなに難しくないはずです。弾けないときはまず歌うことから始めるのです。
複雑な人間の身体も言葉を思い浮かべるだけでなんとでもなるという、ある意味では単純な面を実感できる良い例でもありますね。
ピアノなど音の多い楽器の場合は主要な旋律や和音の大切な音、際立てたい音を歌うだけでも全然違います。
練習の時なら声部を分けて歌ってもいいかも知れません。
実践編2でも申し上げましたが、この方法で1音1音、歩を進めていってください。一つひとつの小さな積み重ねがやがて大きなまとまりや成果になります。とにかく目の前にあることをまずこなしましょう。人生のように先のことをあまり考え過ぎるのはよくありません。