其ノ二
鉄道の楽しみ

これから私達が乗ろうとしているのは、大阪東部から奈良、京都に向かって走る、JR片町線(愛称、学研都市線)です。大阪の京橋から京都府の南部、木津町を結ぶ路線です。明治28年に開業しました。
その沿線の風景を少し紹介してみましょう。

◎駅の思い出

国鉄時代の駅には、今の駅とは比べものにならないくらい、面白いものが沢山ありました。
まず駅舎の前には円柱形の赤ポストと赤電話があります。そして少し入った所には、どの駅にも必ず伝言板の黒板がありました。若い方はご存知ないと思いますが、携帯電話のない頃は、これが待ち合わせの時には大活躍したのです。大抵の駅は小さいものでした。出来るだけ小さい字で書き、特に子供は譲り合いの精神を学んだものです。しかし時には大きな字で書く輩がいたりして、大人は恥ずかしいなと子供心に思ったものです。
書いた伝言は一定の時間が過ぎれば消されてしまいます。
でも、なんて奥ゆかしく素敵なシステムでしょう。伝言が伝わらなければ諦める。それでもトラブルも起こりません。ということは、相手を理解し、昔の人は自分だけでなく相手の時間をも大切にしていたのであり、今のように携帯電話でお互い縛り合う、ということが無かったのだと思います。携帯電話など無くても別に不便など感じませんでした。
でも携帯電話など便利なものを一度手にしてしまうと、もう不便な生活には戻れないものですね。

放出駅にはいつも花が生けられていました。多分、地元の華道の先生が生けていたのだと思いますが、これは他の駅でもよく見かけました。これはとても心安らぐものです。今のJRでもこの習慣は、続ければよいと思います。

◎車内の思い出

昭和30年代、片町線を走っていたのは、オレンジ色か茶色の車両で、あちこちリベットの跡だらけ、まさに鉄の塊でした。騒音もひどく、よく揺れて乗り心地も最悪。内装は床も含めてすべて木製。これは何系というのか、テッチャン(鉄道マニア)の方ならよくご存知でしょう。編成は長くても4両、放出と片町間を走るのは2両編成でした。

私が子供の頃、電車は禁煙ではありませんでした。満員でもタバコを吸っている人はいました。そして痰や唾をそこらへんに吐きまくるのです。
マナーもへったくれもありません。
そこでホームには必ず“たん壷”なるものが何カ所に設置されていました。白いホーローでできた不気味な容器で、そこに痰を吐き出すのです。しかし、たん壷に吐いている人なんか稀でしたね。そして時々その容器が倒されているのですよ。それは悍ましい光景でしたね。

つづく