近年、日本の日本人によるオペラ公演の隆盛には目を見張るものがあります。三四十ねん前には考えられないことです。
しかし、その活動と演奏内容にはかなりの隔たりがあると感じるのは私だけでしょうか。
確かに近年における歌手の技術の向上は目覚ましいものがあり、数十年前とでは雲泥の差です。しかし私には日本のオペラ公演にはどうしても理解ができない事があります。
それは作品そのもののテキストが外国語にもかかわらず、相も変わらず日本訳詞で歌われる事が多いということ。それを目にするたびがっかりしてしまうということがとても多いのです。いくら歌手が良くてもその印象は変わりません。

外国語の作品を日本語で歌った時点でオリジナルではなくなります。偽物に成り下がってしまうのです。これほど、その作品の魅力を台なしにしてしまう行為はありません。
いくら演出が良くても、舞台装置が豪華でも、演奏が良くても、外国語のオペラを日本語で歌った途端、その作品は安っぽい村芝居や学芸会に成り下がってしまうのです。
ベートーベンの第九ですら日本語による公演をされる事があり、私自身その演奏会を聴いた時は余りの異質さ奇妙さ不愉快さに気分が悪くなりそうになった記憶があります。

何故モーツァルトやプッチーニのオペラを日本語で歌わなければならないのでしょうか。
まず考えられるのは、聴衆にはイタリア語やドイツ語が理解できないであろうことを単純に考慮していること。
次に歌い手にとっても日本語の方が身近であるということ。少なくとも、それくらいしか考えられません。単純な話です。
しかし考えてもみてください。
モーツァルトのオペラのメロディーはそのイタリア語やドイツ語によって導き出されたものなのです。そのメロディーと言語は絶対に切り離すことはできません。それを切り離して日本語を無理矢理押し込めばどんなことになるでしょうか。結果は子供にでもわかる事です。
無理に日本語で歌うものですから、メロディーもそれによって傷つけられますし、日本語にも変なアクセントがついてしまい、奇妙で何を言っているのかさっぱりわからない。場合によっては文語調になることも多々見受けられます。

結局、日本語も生かされない、ということになってしまいます。これはいくら発音をはっきり歌ったところで限界があるのです。その言語には特有のイントネーションがあり作曲家はそれにメロディーを付けているので、それに違う言語を後から当て嵌めても言葉として聞こえないのは当然のことです。

それに加え大声を張り上げるのですからわかり難さに輪をかけています。

まあ原語で歌っても発音の仕方によっては何を言っているのか解らないということも有ります。
同じ解らないのならオリジナルの言語で歌うのが最も良いと思います。それ以外有り得ないことです。変な日本語を付けメロディーを傷つけてしまってはだめなのです。

最近、オペラの原語上演に電光掲示板による字幕が出る公演も増えてきました。
これも苦肉の策というか良く考えられた方法ではありますが、観客の目は字幕の方に行ってしまい舞台を楽しむことに注意が散漫になってしまいますし、純粋に楽しみたい人にとっては邪魔以外の何物でもありません。オペラ上演で最も良いのは絶対に原語で歌うこと、これ以外ありません。歌う方もローマ字読みではなく歌う作品の言葉を勉強するくらいの努力は必要不可欠です。
聴衆も言葉が解らなければ前もって今から聴こうとする作品のストーリーくらいは予習して上演に望むべきです。